“どのAIツールがいい?”よくある悩みは本質ではない
先日、小売企業向けの勉強会で登壇したとき、最前列にいた方からまっすぐな質問をもらいました。
「結局、うちはどのAIツールを入れたら良いのでしょうか」
その問いには、強い既視感があります。AI活用の相談を受けると、最初に出てくるのはたいてい「ツール選び」です。商品説明の自動生成、問い合わせ対応のチャットボット、社内向けのアシスタント。選択肢は増え続け、どれも便利そうに見える。迷う気持ちは、よくわかります。
ただ、私が今まさに支援し続けている国内EC事業者の現場をいくつも見てきて感じるのは、ツールそのものの差は思ったほど大きくない、ということです。同じ生成AIを、似たような業務に当てているのに、片方の会社では成果が静かに積み上がり、もう片方ではいつの間にか誰も開かなくなる。その分かれ道は、ツールの外側にあります。
この連載では、EC事業者がAIをどう実装していくのかを、現場の視点で追っていきます。今回はあえて、最も地味な土台の話から始めさせてください。少し抽象的に聞こえるかもしれません。それでも、ここを外すと後の回がすべて空回りします。
鍵になるのは「コンテキスト」と「オントロジー」、この2つの言葉です。
同じツールなのに、なぜ差がつくのか
AI活用がうまくいっている会社を観察すると、共通点があります。AIに「自社のこと」をきちんと渡しているのです。商品データ、過去の問い合わせ対応の蓄積、ブランドのトーン、季節ごとの売れ筋。AIはそれらを手がかりに、その会社らしい答えを返します。
うまくいかない会社は、AIを自動販売機のように扱ってしまう。プロンプトという名のコインを入れれば、欲しい答えが出てくる——そう期待してしまうのです。けれど実際に出てくるのは、どこかで見たような一般論。「AIを入れたのに、思ったほど使えない」という声の多くは、ここで生まれています。
「AI導入=業務効率化」という等式も、躓きの一因だと思います。効率化はあくまで結果であって、その手前に「AIに何を見せ、何を判断させるのか」という設計がある。設計を飛ばして効率だけを求めると、最初の数週間は物珍しさで使われ、やがて静かに放置される。よくある失敗の形です。差がつくのはツールの性能ではなく、AIに渡している情報の質と構造にあります。まずはこの一点を、出発点に置きたいと思います。
「プロンプト」から「コンテキストの設計」へ
「AIに渡す情報を設計する」という営みには、既に名前が付いています。コンテキストエンジニアリングです。2025年の終わりごろから、AI開発の現場で急速に共通言語になりました。
少し前まで、AIを使いこなす技術といえばプロンプトエンジニアリング、つまり指示文の書き方の工夫でした。コンテキストエンジニアリングは、そこから視点を一段階引き上げます。1つの指示文ではなく、AIが受け取る情報環境そのものを、設計の対象として捉える。
指示、参照すべき社内データ、過去のやりとりの記憶、使える道具、今がいつでどんな状況か。それらをまとめてAIに届ける仕組みを作る、という発想です。開発元のAnthropicは、2025年9月29日に公開した「Effective context engineering for AI agents」[1]で、これをプロンプトエンジニアリングの自然な発展形と位置づけ、AIが考えている間に「最適な情報の組み合わせ」を選び、保ち続ける一連の工夫だと説明しています。プロンプトが「言い方」の工夫なら、コンテキストエンジニアリングは「何を見せるか」の設計だと言い換えてもいい。
興味深いのは、ここでの制約が「量」ではなくなっている点です。AIが一度に読み込める情報量は、年々大きく増えている。にもかかわらず、Datadogが公開した調査レポート「State of AI Engineering」[2]は、『多くのチームは、自分たちのモデルのコンテキストサイズ全体を適切に使い切るには至っていない(the majority of teams don't come close to using the full context size of their models)』と指摘します。
問題は詰め込める量ではなく、判断に効く情報をどれだけ選び、整理して渡せるか。質のほうが、新しいボトルネックになっているのです。たくさん見せれば賢くなる、という単純な話ではありません。
[1] Anthropic『Effective context engineering for AI agents』(2025年9月29日公開)
[2] Datadog『State of AI Engineering』
