マスコットはわかりやすい「オフィシャル」の証
もっとも、「権利」とは存在するだけでは価値は発生しない。その価値は「知的に創られる」ことが必要だ。「権利の価値を創る」とは、「非権利者との差異を明確化する」ことである。そして、その価値をあげ、価格をあげるとは、「差異」を明示する機会を増やすことと、「権利の利用を厳しく制限する」ことだ。
公式マスコットといえば、それまでは大会のPRのためのものであり、タダでもいいから「多くの人に使ってほしい」ものだったが、ロス五輪のマスコット「イーグルサム」利用権は厳格に制限した。スポンサー以外で利用したいのであれば「商品化のプレミアム料」を支払え、というわけだ。これらはすべて「公式権」という名でくくられた権利の「商品群」であり、マスコットの使用は、もっともわかりやすい「非公式との差」を作り出した。
ロス五輪の際、富士フィルムのパッケージにはすべて「イーグルサム」が印刷されていた。国内だけで数百万は出回ったはずだ。この露出を組織委員会のPR予算でやったら、いくらかかったことか。それがすべて企業のコストでまかなわれる。それどころか、使用料まで払ってくれる(公式スポンサーにはスポンサーシップ料金に含まれているが)。まさに、マイナスを一朝にして収益元にしたユベロスマジックの真骨頂である。
五輪の名称やマークの「著作権・称号権・商号権」という法定された権利が、「契約」によって厳格にプロテクトされていることは、今やジョーシキだ。そしてそれは「称号」使用者の価値、つまり「利用権」の価値が高値で確立したことを意味している。
「権利」という商品はいうまでもなく「ソフト」である。ソフトという商品の値段は、物体(ハード)と違って、「インプットとアウトプットに相関関係がない」。原価と値段は関係がないのである。たとえば「絵画」。画家として生涯を捧げた人の絵より、「若い天才画家」の絵には数倍の高値がつくのと同じである。
ソフトの値段は「需要と供給の差」だけで決まる。「できるだけ多くの人に欲しがられる」だけではなく、「ごく少数の者に利用が制限されている」ことが不可欠なのだ。これは「ヴィトン」や「エルメス」のバッグと同じだ。これらは「バッグ」という物体を購入しているのではなく、「ブランド」というソフトを購入しているのである。単に物を運ぶ入れ物に「ン十万円」も払うはずがないではないか(「ケリーバッグ」などは、恐らく少量生産に徹し、市場には常に「品薄感」を維持に、「高値の花」を演出しているに違いない)。
スポーツマーケティングは、「権利」を扱うビジネスである。単に「スポーツが好き」で務まる職業ではない。マーケットの本質を理解することと、法的な知識を有すことが不可欠な領域なのである。
