成長スピードが鈍化しつつある日本のEC市場
日本のEC市場は、ここ10年で目覚ましい成長を遂げた。経済産業省が実施した「令和5年度電子商取引に関する市場調査」によると、国内のEC化率は2014年から2023年までの間で2倍以上伸長している。特に新型コロナウイルスが蔓延し始めた2020年、ECに取り組む企業が増加したことは想像に難くない。

では、2025年現在のEC市場はどうか。HAKUHODO EC+の桑嶋氏は「成長スピードがやや鈍化傾向にある」と指摘。その背景を示す目的で、市場の変遷をEC黎明期から四つのフェーズに分けて振り返る。

第一次フェーズにあたる1990年代~2000年代、楽天市場の登場とともにEC市場が誕生した。この頃のECは「通販企業の1チャネルだった」と桑嶋氏。通販企業が深夜帯の受注の受け皿として、ECを利用していたためだ。“インターネットで物を買う”という行為が徐々に浸透し始めたフェーズと言って良いだろう。
第二次フェーズは2010年代からコロナ禍直前までを指す。Amazonが日本での活動を本格化させ、楽天市場との競争を繰り広げた時代だ。
「この頃から、メーカー各社が楽天市場やAmazonを活用するようになりました。その結果、ECは実店舗など他の販売チャネルと横並びで考えられるようになったのです」(桑嶋氏)
桑嶋氏は第三次フェーズとして、2020年から2022年までの期間を指定。コロナ禍の影響で多くの企業がECへと参入した時期であり、直前に北米で急激に伸びたD2Cブランド各社の成功事例が研究され、日本での導入が進んだ時期でもある。
「D2Cの利点は、顧客と直接つながることで1st Party Dataを収集できる点にあります。ブランド各社が運用を通じて、その可能性に気付き始めたのです。こうしてECは単なる販売チャネルから『マーケティングチャネルの一つ』として捉えられるようになりました」(桑嶋氏)
過渡期の勝ち筋は「Commerce Anywhere」
そして現在、EC市場は「第四次フェーズに位置している」と桑嶋氏は語る。第四次フェーズでは何が起こっているのか。
HAKUHODO EC+が実施した調査の結果によると、コロナ禍を経て50代・60代のEC利用が増加した一方、若年層を中心に実店舗での購買が増加している。実店舗回帰の波を受け、第二次・第三次フェーズでECに参入した企業の中には期待した成果を得られず、EC市場からの撤退や再建などの経営判断を迫られているところもあるという。
「第一次から第三次フェーズにかけて、各社が激しい競争を繰り広げてきました。一方、生活者目線では購買チャネルの選択肢が増えたと同時に、EC体験が快適なものへ進化したフェーズとも言えます。過渡期にあたる第四次フェーズ、企業は競争の勝ち筋を見出さなくてはならない状況です」(桑嶋氏)
HAKUHODO EC+が第四次フェーズの勝ち筋として考えているのが「Commerce Anywhere」という概念だ。この概念では、ECをマーケティングや事業におけるハブの役割として捉える。
「今、我々が考えなければならないのは、ECビジネスをECだけで完結させることではありません。オフライン・オンライン双方におけるマーケティングのプラットフォームとして、つまり事業活動全体の起点として、ECビジネスを捉える必要があるのです」(桑嶋氏)
ECビジネスで初年度から黒字は難しい
Commerce Anywhereの概念に則ってECビジネスを進めるにあたり、陥りがちな失敗があるという。第一の失敗は「絵に描いた餅と化した事業計画」だ。

たとえば、初年度での黒字化を目指す経営層が目標数値や予算を設定したとしよう。しかしながら、現場の担当者はそれらの数字をどのようにして生み出せば良いかわからない。このようなケースが当てはまる。
この状況を打破するためには「ECビジネス自体への正しい理解が必要」と桑嶋氏。HAKUHODO EC+では、クライアントに対し「ECビジネスは初期投資型ビジネスである」と伝え、初年度からの黒字化は難しいと正直に説明しているそうだ。
「初期投資から黒字化までのカーブをどのように描くか。ここが鍵となります」(桑嶋氏)

第二の失敗は「システムとフロントの隔たり」だ。システム担当者は多くの場合、セキュリティリスクやコストを勘案してECシステムを選定する。一方で、マーケティング担当者は機能を重視してECシステムを選定するため、両者が理想とするECシステムにギャップが生じ、不和が起きるのだという。
「最初期のステップにあたるシステム選定で失敗すると、事業はうまくいきません。大切なのは、目指すべき売上や描きたい事業のビジョンをチームで議論することです。システム担当者とマーケティング担当者だけでなく、物流担当や営業担当、商品開発担当とも目線を合わせるべきでしょう」(桑嶋氏)

成功の鍵は議論の順番と輪の拡げ方にあり
ECビジネスを事業のハブと捉えるCommerce Anywhereは、どう実現すれば良いのだろうか。ここからはHAKUHODO EC+の澤田氏が、考え方のポイントを解説する。

澤田氏いわく、従来はECが企業のマーケティングにおける“出口”として捉えられていた。経営戦略があり、その次にマーケティングがあり、そしてその先に4Pがある。ECは4Pに含まれるPlaceの一つだったわけだ。
「ECが人々の生活に浸透している現在では、ECと実店舗の購買情報を組み合わせて顧客理解を深めるアプローチが自然であり適切です。ブランド戦略においても同様のことが言えます。顧客がECと店頭を並列に見ているのであれば、カスタマージャーニーにはあらかじめECを組み込んでおく必要があるでしょう」(澤田氏)
実際、HAKUHODO EC+が支援したクライアントの中には、ECビジネスがマーケティング戦略全体の起爆剤となった企業もあるという。ECモールでテスト販売した商品がヒットしたり、ECモールでPDCAをスピーディーに回した結果、得られた知見を店頭での販売戦略に活用したり、実例は少なくない。
EC起点のマーケティング活動を成功させるために「重要なポイントが二つある」と澤田氏。第一のポイントは「議論の順番を正すこと」だ。
「EC担当者は、イメージしやすい広告運用やサイト改善などのキーワードに目を奪われがちです。しかし、EC担当者が経営者視点を持ち、中期経営計画や店頭戦略と絡めて施策を議論することが重要なのです」(澤田氏)
第二のポイントは「議論の輪を広げること」だ。
「正しい順番で議論をすれば、議論の輪は自然と広がるでしょう。システム部門やデータ部門の担当者と密に話し合い、仮説に基づいてECビジネスを構想することにより、チームの共通見解が構築されます」(澤田氏)
メンバーの実行を促す「問い」を立てよ
第四次フェーズの今、企業はECを単なるチャネルではなく、事業活動全体の起点として捉える必要があることは既に説明されたとおりだ。澤田氏は、EC起点の事業運営を成功に導くための助けとして、次のようなフレームワークを紹介する。

「STEP1では事業基盤をはじめとする戦略を経営者視点で策定しましょう。続くSTEP2ではマーケティング施策などの戦術を生活者視点で考え、進めていくフレームワークです」(澤田氏)
このフレームワークを使えば、社内で共通認識を構築することができるという。ただし「関係者にフレームワークを渡すだけでは実践されない」と澤田氏。ポイントは、戦略や戦術を実践に移しやすい「問い」の形に翻訳することだ。

戦略立案において設定すべき問いは三つ。第一に「あるべきチャネルの使い分けって?」という問いを立てることで、各チャネルの役割を定義する。続いて「マーケティング視点でフルフィルメントをどう設計する?」という問いを立てれば、陥りがちなシステム選定の失敗を回避することが可能となる。第三の問いは、事業指標に関する問いだ。「KGI・KPIはどうやって設計する?」という問いがあれば、有効な指標をメンバー全員で議論できるだろう。
戦略の次は戦術だ。ここでも「ECで買いたくなる情報のタッチポイントって?」「もう一度物を買いたくなるための仕掛けって?」「長くファンでいたくなるツボって?」などの問いを立てることにより、生活者視点の意思決定が行えるという。
“あるある”から現場の課題を紐解くと
ここから桑嶋氏と澤田氏は「ECビジネス支援の現場あるある」というテーマの下、クライアントからよく聞くフレーズを三つ紹介する。
あるある 1
フルフィルメントは専門家に任せているので
「フルフィルメントは一般的に『受注から出荷まで』を指すと考えられていますが、この認識は正しくありません。ECで商品を購入した生活者にとっては、外箱や同梱物が最初の“顧客接点”になるケースが多く、フルフィルメントは顧客体験を左右します。『事業全体を下支えするインフラ』のようなイメージでフルフィルメントを捉えるべきです」(澤田氏)
あるある 2
限られた宣伝費でEC起点のブランドを作りたい
確かにEC起点のブランドでは、限られた予算でスモールテストを行うことができるだろう。しかしながら、スモールテストを意味あるものとするためには「初期仮説が重要」と澤田氏は強調する。
HAKUHODO EC+では、初期仮説の構築にSNSの活用を推奨しているという。SNSで収集可能な顧客の“生の声”を商品開発の段階から取り入れれば、発売後にSNSでの発話を促せるためだ。
あるある 3
ECってデータ取れるんでしょう?とりあえず分析して
このフレーズの問題点として、澤田氏はデータ取得に対する認識の甘さを指摘。生活者の情報リテラシーが向上する昨今、企業が自身から取得したデータの活用用途が不透明な場合に、生活者はその企業のサービスの利用をやめてしまうという。
「データを取得したい場合は、生活者に還元できるメリットを明確に示す必要があります。生活者への還元をゴールに設定した上で、データ分析のあり方を設計しましょう」(澤田氏)
桑嶋氏は最後に、次のようなコメントでセッションを締めくくった。
「Commerce Anywhereの時代を迎え、ECは出口ではなく入口のような存在となりました。つまり、EC起点のマーケティングが事業成功の鍵を握っているのです。今日ご紹介したフレームワークや問いを基に、経営者視点と生活者視点を行き来しながら、チームで議論を進めてみてください」(桑嶋氏)
書籍『EC起点の事業変革 博報堂式 ECから始める、これからのマーケティング』(翔泳社)では、本セッションの内容はもちろん、具体事例やメーカー担当者への取材記事も収録されている。ECビジネスを展開する企業のマーケターは必読の一冊だ。
