本記事は、故人である小霜和也氏のご家族の許可のもと、掲載しております。
小霜和也氏という人
マスとデジタルの両方とも一人でディレクションできる本物の広告人は、今の日本に小霜氏しかいない。少なくとも、私のような末端の広告運用者の言葉にも真摯に耳を傾け、ネット広告の理屈も加味してセグメントを作りターゲットを設定し、CMを作るクリエイティブ・ディレクターは、小霜氏以外にはいない。最近はデジタルもできる総合代理店の人も増えた。だが、独学で小霜氏ほど深く、ネット広告やデジタルクリエイティブを研究している人を私は知らない。
ここで重要なのは、「独立して独学し、結果がすべての世界に生きる」、小霜氏の身を挺する生き様だ。
9月22日午後、小霜氏のマネージャーである坂根舞氏からメールが入った。直感的に「あれ、おかしいな」と思った。普通なら小霜氏から直接メールがくる。だから私は、恐る恐る開封した。
「大変急なお知らせなのですが、今朝小霜が自宅で亡くなりました。
昨夜までリモート会議をしておりました。ほんとすごい人です。
先月は入院をして皆様にご迷惑おかけしたりいたしましたが、退院以降も全身の状態があまりよくなかったようです。」
ご迷惑だなんて、とんでもない。っていうか、「えっ!?」。メールを受信したスマホが指の隙間から床に落ちた。私の身体の気圧が急激に低下した。
小霜氏と出会ったのは、いつだったか。もはや覚えていない。だが、記憶にある限りで3回以上は、ご自宅に訪問している。ご自宅では、対談取材や仕事の打ち合わせをした。そこではほぼ100%マジメに話している。が、会食に行った際には、クダラナイ話、男同士の話、ときに、他のメンバーも一緒にカラオケして踊ったりした。小霜氏は綺麗な声でムーディな楽曲をこなし、結構、しんみりとさせられた。
念のため、小霜氏を知らない人のために、訃報の記事も貼っておきたい。
小霜和也さん死去 「PlayStation」「KIRIN/一番搾り」CMなど手掛ける(ORICON NEWS)
小霜さん。今だから、本当の話をします。
大先輩の小霜氏と親しく話せるようになったのは、彼の著書『急いでデジタルクリエイティブの本当の話をします。』(宣伝会議)を、私が査読してからだ。この本のデジタルに関する認識、運用型広告の理解や表現などに間違いがないか、「そのほか何でも気づいたことがあれば、加筆・修正してもらえないでしょうか」。そんな依頼を受けた。後輩であっても、どんな相手であっても、フラットに丁寧に応対するのが、彼の流儀だった。
今だから、「本当の話をします」。小霜氏の原稿には、間違いは一つもありませんでした。でも、私は、いろいろと加筆・修正をしました。ゴメンなさい。「だって、まったく赤を入れずに戻したら、きっと小霜さんは怒るだろうな」ってあの時、思ったのだ。
さらに「本当の話をします」。心の底から、嬉しかった。「認められた。小霜さんに認められた」。ただ、それだけ。小躍りするような感覚だった。だって、1990年代後半からネット広告をやっている私。当時は、電通や博報堂の正社員の方々とは、話す機会さえ頂けなかった。電通の社員の方から「ネットの仕事は電通の正社員がやる仕事じゃないんだよ。だから、子会社を紹介するね」と言われた。似たようなことは、博報堂からもいわれた。だから、電通も博報堂も、お時間さえ頂けない、雲の上の存在だった。
その雲の上の博報堂から独立し、様々な広告賞の受賞歴があり、電通やクライアントから指名されて、CM(WebCMも)を作ったり、コピーを書いたりする人。それが小霜氏だ。
電通という会社は、もちろん、日本一の、いや広告人材という意味では世界一の頭脳集団だ。世界トップクラスのクリエイティブ・ディレクターやコピーライター、マーケター、プランナー、ストラテジストなどなど、まさに電通は人材の宝庫なのだ。その電通が自社のスタッフよりも、「小霜氏に依頼しよう」ってなる。だから、私にとって、小霜氏は「雲の上の、さらに上」みたいな存在だった。
でも、「本当の話をします」。小霜氏は、とても無邪気な良い人でした。いや、お酒を飲むと、普通の優しいオジサンでした。でも、ときどき、悦に入って、真剣に人生や広告の話をしてくれた。
その真剣な小霜氏は、すごかった。どこか「命がけ」というか、「悟っている」ように見えた。それは、熱く語るというよりは、落ち着いた静かな口調で、「客観的に主観的な」話をする。聞いているこっちは、魔法にかかったようになる。