典型的なマス広告マンがインターネットと出会った
MarkeZine(MZ):今年の1月にMarkeZineは『ネット広告がわかる基本キーワード70』という本を出したのですが、編集しながらネット広告の歴史を振り返るなかで、よくこんなことが実現できたなと感じることがありました。今日は「枠から人へ」という言葉とともに、アドテクノロジーの普及を牽引してきた横山さんにお話をうかがいたいと思います。
横山:はじめにお話しておくと、僕は日本で最初にアドテクに関わったとは思いますが、アドテクの人ではないんです。1982年~1995年まではテレビCMをつくって、スポットを引いていた典型的なマス広告マンでした。そういう人間が、1996年にネット広告ビジネスをゼロから始めた。今年で日本のネット広告の歴史も20年になるわけですが、アドテクをやっていてもネット広告の歴史すら知らない人が増えているという状況は確かにありますよね。
そもそも僕がインターネットに関わり始めたのは、伊藤穰一(Joi)くんと出会ったのがきっかけなんです。いまはMITメディアラボの所長だけど、1992年ころの彼は、六本木でイベントをやったりDJをしていた変わった小僧でね(笑)。でも、彼は日本にインターネットを紹介したひとりです。PSIネットというプロバイダーを日本に持ってきて、僕もその会員でした。そのころ日本にインターネットユーザーは何人いたでしょうね。
MZ:いきなり意外な名前が出てきました(笑)。
横山:僕は1982年に旭通信社(旭通、現アサツーディ・ケイ)に入社して、テレビCMからイベント、マーチャンダイジングまでさまざまな仕事をしていました。1992年に書いた懸賞論文のおかげで海外研修で米国に行かせてもらったんだけど、当時はアル・ゴアが「情報スーパーハイウェイ構想」を打ち出したころで、IP以外にも複数のプロトコルを使って放送や通信の実験が行われていました。
そのとき僕が参加したあるプレゼンテーションで、タイム・ワーナーが2つのことを言っていた。ひとつは、アメリカはもう一度情報の世界で復権するということ。もうひとつは、広告主とメディア、消費者がもっとダイレクトにつながるから、エージェンシーという機能はそのうちなくなるんだということ。
MZ:そのころすでにそういうヴィジョンがあったんですね。
横山:僕は「あ、すごいこと言ってるな」と思って帰国して、Joiにタイム・ワーナーがこんなこと言ってたよと話したら、「いや、そうだと思うよ」と。そのころはブラウザすらなくて、テキストベースのサービスが中心でした。たしかSun Microsystemsかなにかの大きなワークステーションで、Joiが「これからNASAのネットワークの中に入ってみよう」って目の前でやってみせて、「これいまリアルタイムで入ってるわけ?」といったら「そうだ」と。ホントかウソかわからないけど(笑)、僕はそれですごく感化された。
青山学院大学の同窓でバンド仲間だった親友が、デジタルガレージ(DG)の前身のフロムガレージの創業メンバーで、1995年に社名を変える前後に、林くん(現DG代表取締役社長)がどこからかJoiを連れてきて、DGにジョインさせた。その翌年、1996年に、ソフトバンクの孫さんがYahoo!を日本に持ってきて、Yahoo! JAPANが設立されることになったんです。
MZ:日本のネットビジネスが大きく動き始めた年ですね。
横山:それに対して、こちらはInfoseekを持ってこようと。当時のYahoo!は人力でホームページを分類して登録するディレクトリサービスでしたが、Infoseekはロボットを使って、サイトのリンクをたどり、どこにどういうテキストがあるのかをクローリングしてきてインデックスしていた。Joiは、ネット上のホームページの数はこれから膨大なものになるから、後者が主流になるはずだと言っていました。
Yahoo!は電通と組んでメディアレップを立ち上げる。こちらは、DGがInfoseekを日本に持ってきて、旭通と博報堂と組もうということになった。そこで僕は、去年亡くなった旭通信社の創業者、稲垣正夫さんのところに行って「博報堂と組んでいいですか」という話を一対一でしました。実は稲垣さんは、当時の博報堂会長の近藤(道生)さんとその2週間くらい前に会食をしていて、「旭通を一企(第一企画)と合併させるから、博報堂さんに一緒になってもらって、電通と対抗する勢力をつくりましょう」と言ったそうです。そのときは「なぜそんな話を僕にするんだろう」とびっくりしました。
稲垣さんと近藤さんは、「まぁ話は簡単ではないけれど、これから何か協業できることがあればやりましょう」いう話をしていた。けれど具体的な材料がなかったので「横山さん、これはいい話ですね」ということで話が進んだ。そのあと僕と博報堂のS氏が起案者になって、博報堂、旭通、一企、DG、読売広告社、I&S、徳間書店という座組みで1996年にDAC(デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム)を設立しました。競合する広告代理店どうしで合弁会社をつくるのは本当に珍しいので、日経の一面にも載りました。それから今年で20年目なんですね。
「ネット」と「広告」という異質な文化をつなげることが最初の仕事
MZ:そのころのネット広告は、どのような状況だったのでしょうか。
横山:Infoseekもロボット検索というのが強みだったけれど、日本語に対応するのに苦労していたし、サーバーが落ちることもあった。Joiのアメリカンスクール時代の友達が日本でサーバーの管理をしていたんだけれど、彼らに言わせると「サーバーなんて落ちるのは当たり前」。でも、僕たちが広告を売りにいった広告代理店にとって、それはテレビCMにおける“放送事故”なんですね。100万円の広告料のテレビCMで事故を起こしたら3倍返し、300万円返すという業界のルールがあった。
でも、こちらはインターネットというまだ確立されていない技術。「サーバーが落ちたら3倍返し」と言われても「それはムリですよ」と広告代理店を説得しながら、社内では「3倍返しっていわれる世界なんだぞ。サーバー落とすなよ」と言って、こっちもなんとか引き寄せて。「ネット」と「広告」という全然違う文化を同じ土俵に上げるというのが、僕が最初にやったことなんですよね。
MZ:「ネット広告」と言いますが、そもそも「ネット」と「広告」はまったく別モノだったんですね。
横山:そうこうしているうちに、出向社員ばかりだったDACも、はじめてプロパー社員を採用することになったので、東京都広告業健康保険組合の理事長だった稲垣さんに紹介状を書いてもらって事務局へ行ったんです。そうしたら、「インターネットが広告メディアであることを証明する文書を書いてください」と(笑)。つまり、最初はインターネットが広告メディアであるかどうかも定かではないし、そんなものをそもそも広告の枠として売るということは、信頼性から何から非常にあやしげなものだったわけです。
いまネット広告の市場規模は1兆円を超えましたが、僕らが始めた1996年は、電通が「日本の広告費」でインターネット広告というのをはじめてカウントした年で16億円だった。最初のネット広告は米国のHotWiredに出たバナーだと言われますけど、それが1994年。日本は2年でキャッチアップしたんですね。そういう意味では早かったなと思います。