ユーザーが望まない、行き過ぎたデジマ
昨今、GDPRなどのデータ保護規制の整備が急速に進んでいる。マーケティング担当者ならば一度は耳にしたことがあるだろう。日本でもこの2020年、個人情報保護法改正が実施される。
この一連の動きは、新規客の獲得手段が減ってしまうこと、そして既存客のCRMに力を入れなければならないことと同時に語られる。しかし、Cookieの代替手段が登場してはパーソナルデータが知らぬ間に換金されるという動きは、需要がある限りは永遠に続くのではないかと私は思う。
プライバシーへの配慮が強まる流れになっても未だ、スマホの一部のアプリでは、ブラウザ上の行動ログを新たな手法で取得し、そのデータをマネタイズし始めていると聞く。それ自体が絶対悪とは言わないが、Cookieではなくスマホに紐づくIDで取得するなど、ポストCookie的手法の代替は技術的にはいくらでも可能ということだ。
それでは何が本質的な問題なのか。それは、ユーザーが望まないことであっても、需要が絶えないことこそが問題なのだ。この倫理観なきイタチごっこは、まさに「広告主の倫理観」抜きには断ち切れない。本連載は、行き過ぎたデジタル施策を広告主の立場から変えていくための呼びかけである。
アドテクを突き詰めた不義理な過去
かく言う私も、10年ほど前は倫理観とは程遠い、血の通わない広告運用をしていた。偉そうなことを語る前に、かつての檻を告白しなければならない。
2008年、私のキャリアは「デジマ担当」からスタートした。目の前のCPAに日々縛られる宿命を背負っていた新社会人の私は、盲目的に最新テクノロジーと数字を追いかけていた。会社のビジョンには共感しているが、想像力が足りていないがゆえに、当時は実務におけるCPA目標の達成率だけが正解であった。
バナーには関心がなく、自動最適化変数の一つに過ぎなかった。質の悪いクリエイティブ、しつこいリタゲも許容し、ネイティブ広告に至ってはユーザーに誤認されかねない表現までも厭わなかった。2010年頃からはDSPやPLA(ダイナミック広告)に夢中になり、次から次へと新しいものを取り入れた。社内表彰されることも多くなり、勝てば官軍とばかりに広告担当者としての自信を深めていった。
新人から中堅になってもなお、広告枠ではなく人を追跡する機械任せの運用スタンスは変わらず、逆に人を見なくなっていた。買い付けの効率化を優先するあまり、肝心のサービスとの一体感も二の次。サービスの本質的な価値を理解しないまま、サービスの表層的な特徴ばかりを広告で訴求する日々だった。
自信が傲慢さに変わりつつあった2012年、サービスを作る側に回ることを志願し、メールマーケティングの担当へ。ここで今まで積み上げた自信が一気に打ち砕かれ、大きなマインドチェンジを遂げる事件が起こった。