花王ヘアケア事業の危機と、鮮烈なV字回復
この10年、日本のヘアケア市場にはかつてない地殻変動が起きていた。新興ブランドが1,400円以上の「ハイプレミアム」商品を次々と市場に投入し、そのシェアを市場金額の40%にまで急拡大させたのである。対照的に、花王をはじめとする大手マスメーカーは、この変化の荒波に飲まれ、苦戦を強いられることとなった。
苦戦の要因は、長年踏襲してきた「マス型」のビジネスモデルにあった。花王には、約70年の歴史を誇る「メリット」や、ブランドの柱である「エッセンシャル」といった強力なブランドが存在する。しかし、山岡氏は「歴史があるがゆえに変化に対応しきれなかった」と当時の状況を分析する。
2009年花王入社。「ヘルシア」・「めぐりズム」など、ヘルスケア領域ブランドで、国内外のマーケティングを担当した後、2022年より国内インバスヘアケアブランド(THE ANSWER、melt、MEMEME)のマーケティングに従事。
同社のこれまでのヘアケア事業は、優れた機能や成分を前面に押し出す「シーズ発想」が中心だった。たとえば「メリット」はフケ・かゆみを防ぐ洗浄機能を、「エッセンシャル」はキューティクルをケアするダメージ補修を追求してきた。これらは心理学でいう「システム2(論理的・合理的)」に訴えかけるアプローチであり、理屈で理解して選んでもらうスタイルである。しかし、現代の消費者がパッと見て「かわいい」「良さそう」と直感的に感じる領域、すなわち「システム1(直感的・感情的)」のニーズを捉えきれていなかったのである。
「機能やスペックでの差別化に偏っていたことが、お客様のシャープなニーズを捉えきれなかった原因です」(山岡氏)

年々シェアが縮小していくという深刻な危機を乗り越えるべく、花王は2024年に抜本的な事業変革をスタートさせた。変革の柱となったのは、以下の3点である。
花王ヘアケア事業変革のポイント
【1】新しい事業ビジョンの策定
【2】感情を軸にした「感性マーケティング」への転換
【3】全員で作り上げる「スクラム型の組織体制」の導入
この挑戦は瞬く間に成果を生んだ。新ブランド「melt」や「THE ANSWER」の展開により、花王ヘアケア事業の売上シェアは9年ぶりに前年を回復。さらに「ベストコスメアワード」では、「THE ANSWER」がシャンプー・トリートメント部門で史上初となる総合大賞を受賞。同じく「melt」も同部門で2位にランクインしてワンツーフィニッシュを達成するなど、美容専門家や生活者から圧倒的な評価を獲得し、鮮烈なV字回復を果たした。

新ビジョンと「感性マーケティング」でブランドの役割を再定義
ここからは、この成果を生み出した変革のステップを紐解いていく。第一歩となったのは、個別ブランドの枠を超えた共通の「事業ビジョン」の策定であった。従来は、メリットはメリット、エッセンシャルはエッセンシャルといった具合に、ブランドごとに個別のアクションが取られていた。しかし、それでは事業全体としての力強い推進力は生まれない。
そこで策定されたのが、「髪の生きる力を、人の生きる力へ。」という新事業ビジョンである。山岡氏はその真意を次のように明かす。
「生活者にとっては髪の調子が良い時の気分と、悪い時の気分では全然違うのではないでしょうか。だからこそ、いかに髪の力を『人の生きる力』に変えていくか、というところに大きなチャレンジをしました」(山岡氏)
このビジョンは、単なるスローガンに留まらない。全メンバーが向かうべき方向を一つにする「北極星」の役割を果たしたのである。その上で、人の感情を論理的に理解するための手法として「感性マーケティング」を導入。人の感情ニーズを「ハイエネルギー(解放)」から「ローエネルギー(快適さ)」、さらに「集団(つながり)」から「個人(社会的な向上)」までの軸で整理し、各ブランドの役割を再定義したのである。
たとえば、新ブランドの「melt」は落ち着きたい時の「Comfort(優しさ・安心感)」を起点とし、一方の「THE ANSWER」は納得感を重視する「Balance(こだわり・調和)」を起点に据えた。

「『人それぞれのありたい髪を実現し、希望や活力に満たされた毎日へ』という役割をもとに、ブランドがどうワークするかにこだわりました」(山岡氏)
このように感性を軸にブランドのポジションを再定義し、それをベースとして花王の技術力を掛け合わせることで、感情に働きかける「記憶に残る商品体験」と「本質的な髪の変化」を可能にする製品開発を進めていったのである。
