デジタル領域に足を踏み入れさらに成長を加速
MZ:仙台で営業に携わった後は、どのような仕事を?
菅:その後は東京本社のサイバービジネス局というところに異動になり、様々な業種のインターネットマーケティングの戦略構築、コンサルティング業務を行っていました。2001年当時で30名くらいの組織で、営業・メディア・クリエイティブが揃っていたのですが、その後にネットバブルが崩壊したり黎明期ならではのトラブルが発生したりしました。加えて、大きな数字を残せなかったことから局の解散を言い渡されたんです。
ただ、その後も営業局の立場でネットメディアのバイイングやネットサービスの開発に携わっていて、どことなくモヤモヤしている状況でした。
MZ:そのタイミングで転職を考えなかったんですか。
菅:正直このままデジタルに注力しない会社の方針なら辞めようと、退職届も出しました。ただ、そのときに社長から「菅君が考える総合広告会社のデジタルマーケティング組織の姿を考えてほしい」と言われたんです。そして、自分なりに組織の構想を描いて提出したところ、その組織の立ち上げが決まりました。30歳で起案して、そこから1年半くらいで最年少部長となり、37歳で最年少局長になることができました。
MZ:退職届を出したのに、残って最終的には局長になるまで残るのはかなり異例だなと思いました。どうしてそれだけの期間同じ会社に残るに至ったんでしょうか。
菅:元々、キャリア戦略を考えて積極的に転職をしていくようなタイプではなかったのが大きいです。そして、会社に対するロイヤリティは高かったため、「これから絶対に伸びるデジタル領域に今踏み込めればチャンスがあるのに」という思いがありました。実際に全社におけるデジタル広告の売上比率はかなり上がりましたし、総合広告会社の中でデジタルに強いイメージを作ることができたと思っています。
従来の広告会社を超えた支援ができる会社を設立
MZ:局長まで上り詰めて、順風満帆な中で2015年に独立してBICPを立ち上げられましたね。その理由を教えてください。
菅:マーケティングのデジタル化が進むにつれて、従来の広告会社の営業では広告主のニーズに応えられないと思ったのがきっかけですね。デジタル時代のアカウントプランニングができる集団を作るべく、BICPを立ち上げたんです。
そして、デジタルオタクではなく、デジタルのリテラシーは持ちながらマーケティング戦略にもきちんと向き合える集団を作ろうと考えていました。デジタルマーケティングの専門部署が孤立するケースもある中で、マーケティング戦略×デジタル×プロデュースでクライアントにニュートラルに向き合えるパートナーを作るべく独立に至りました。
MZ:独立して社長になったことで、変化したことはありますか。
菅:会社を立ち上げたときは1人だったので、個人でどのような価値を世の中やクライアントに提供するか、考えるようになりました。組織にいたときはHowの中でどう差別化するかを考えてしまう場面もあったんですが、会社を立ち上げてからはなぜこの事業をしているのかというWhyを大事にするようになりました。
実際にBICPの理念に共感してくれるクライアントやパートナー企業と一緒にお仕事ができるようになったので、理念の強さを感じましたね。
また、社長になってからは資産で考えるようになりました。会社の管理職でもP/Lまで見ることはあっても、B/Sと呼ばれる資産の部分まで見て会社の将来を描くところまではできないと思っています。直近の数字だけではなくて、未来の資産の種まきも会社を立ち上げてからは意識しています。