1990年代中盤という時代の解釈
この1990年代初頭から1995年頃という区切りを、どのように考えるのかでマーケティングに対するアプローチも大きく異なってくる。結論から言うと、この時期は“ネットワーク的な考え方”が、徐々に形成されていった時期と言える。“ネットワーク的な考え方”は、上述の認知心理学でも大きな要素として扱われている。そもそも、人間の脳内をあたかもコンピュータ・ネットワークであるかのように把握することが、認知心理学の大きな潮流なのである。
ようやく本題に入るが、本書『ティッピング・ポイント』は、まさにその90年代前半から中盤にかけて形成された“ネットワーク的な考え方”を土台にして編まれた著作である。
著者のマルコム・グラッドウェルは『ワシントン・ポスト』紙の記者を経て、雑誌『ニューヨーカー』などにコラムを執筆している人物だが、マーケティングあるいはネットワークを専門とする人間ではない。しかしながら、『ティッピング・ポイント』の内容を読み進めると、ネットワーク的な思考が解釈に大きな影響を与えていることがわかる。ちなみに、この著作の元となった記事は、96年春からスタートした『ニューヨーカー誌』での連載だ。
グラッドウェルはスタンリー・ミルグラムの“関係の六段階分離”を出発点に、ネットワークのハブとなる人物像を描き出す。グラッドウェルによれば、ネットワークが活性化するためには、ネットワークそのものの構造もさることながら、ハブの性質が大きな影響を及ぼすという。また彼は、“20:80の法則”としてよく知られているパレートの法則を援用しながら、さらに“20”に該当するのはどういった人物であるのか? ということを考察した(“少数者の法則”>。グラッドウェルによる3タイプは以下のようなものである。
- コネクター:媒介者
- メイブン:通人(通行人ではなく“事情通”の意味)
- セールスマン:説得者
それぞれがどのような役割を担っているのかは本書を参照してもらうとして、グラッドウェルはさらに伝播しやすいメッセージ(“粘りの要素”)と、伝播しやすい環境(“背景の力”>といった側面からも検討を加え、“ティッピング・ポイント”というアイディアの説明を試みている。
ここで、本書で取り上げられている事例をひとつ紹介しよう。
アメリカ人にはおなじみのスウェードシューズ“ハッシュパピー”ブランドは、1994年ごろまでは死んだも同然のブランドであった。しかし、94年から95年にかけて、“ティッピング・ポイント”が訪れることになる。きっかけは、イーストビレッジやソーホーにたむろする一握りの若者が、この靴を履き始めたことだった。それが著名なデザイナーの目に留まり、1年もしない間にこのブランドは爆発的な売れ行きを記録し、定番アイテムとなっていく。
この事例の中で重要な役割を担ったのは、一握りの若者たちと、アナ・スイやジョエル・フィッツジェラルドなどの著名デザイナー、コメディアンのピーウィー・ハーマンらである。こういった人物たちがコネクター、メイブン、セールスマンとして機能した、というのがグラッドウェルの見立てである。この事例が起こったのは94年のことだが、本書で取り上げられている他の事例の時系列に注目したい。
「なぜハッシュパピーの靴は爆発的に売れ出したのか('94年~)」
「なぜニューヨーク市の犯罪率は急速にダウンしたのか('93年~)」
「突如売れ出した『エア・ウォーク社の靴』('95年~)」
「なぜボルティモア市の梅毒感染率が急激に増加したのか('95年~)」
見てもらえればわかる通り、90年代中盤の事例が多いことに気づく。
もちろん、本書ではこの時期以外の事例も取り上げられているのだが、重要なのは「いつ、その事例が起こったか」ということではない。むしろ「90年代半ば頃に、このような解釈が出始めてきたこと」の方が重要である。ネットワーク的な解釈で社会を観察すると、このような事例が浮かび上がってきた、といった方が正確だろう。先述した通り、グラッドウェルの連載記事が始まったのは'96年である。