脳科学の価値は、マーケティングが科学に近づくこと
――はじめに自己紹介をお願いいたします。
茨木:NTTデータ経営研究所で、脳科学の応用に関する仕事をしています。元々は基礎医学として脳・神経を研究していたのですが、現在はニューロテクノロジーを活用し、様々な領域のクライアントの新規事業やマーケティングを支援しています。
――さっそくですが、脳科学の知見をマーケティングの領域に活用すると、どのようなことが可能になるのでしょうか。
茨木:まず整理しておきたいのは、感じたり、行動したり、欲しくなったりといった、人間の情報処理の背景にある計算基盤や情報表現、計算原理を科学的に解き明かしていくのが「脳科学」という学問であり、その技術を応用するのが「ニューロテクノロジー」と呼ばれる分野なのです。
ニューロというと、電極や脳波計を用いた実験を想像される方が多いのですが、ニューロテクノロジーの本質的な価値は、“人を理解するための新しい情報媒体を手に入れた”ということです。
早稲田大学文学部心理学科卒。東京大学大学院医学系研究科 医科学修士課程(脳神経医学専攻)修了(MMedSc)。同・医学博士課程中退後、2014年4月にNTTデータ経営研究所に入社。2019年11月、『ニューロテクノロジー~最新脳科学が未来のビジネスを生み出す』を上梓。
茨木:これまで人を理解するための方法といえば、行動を観察するか、言葉で伝えてもらうしかありませんでした。特に「どんな広告/製品をつくったら買いたいと思うか」のようなことが知りたい場合、インタビューやアンケートなど言語情報ベースの観測に基づく結果くらいしか、手がかりがなかったわけです。
しかし、脳の中には言葉で表出不可能なレベルの情報がたくさん表現されていて、最新の脳計測・解読技術を使えば、それを取り出して、主観データに頼るより正確に消費者の行動、つまり「価値を感じて買うか買わないか」を予測できるようになっています。
――脳科学を活用すれば、より客観的な情報に基づいた正確な施策を実施することができるようになる、ということでしょうか。
茨木:はい。マーケティングの意思決定をする際、人が言葉で説明する情報だけを信じてしまうと判断を誤ってしまうことがあります。これをよく表しているのが、『Science』に掲載された以下の実験(※)です。
まず、男性被検者を実験室に呼んで、女性の顔写真を2枚見せて「どちらが好みか」を尋ねます。その後、選んだほうの女性の写真を渡して、「なぜ選んだのか?」「どういうところが好きか?」を質問するのですが、この実験には仕掛けがあって、手元に渡す際にわざと、選んでいないほうの顔写真を渡すのです。
普通に考えれば「これは私が選んだものではない」と申し出てくれそうなものですが、実験では9割程度の人が、差し替えられた直後にその事実に気づけず、好きな理由をもっともらしく答えてしまったりしたのです。これは「選択盲」と呼ばれる現象で、「選択理由を言葉で聞いても、それは真の理由ではないかもしれない」ということがわかります。
(※)Johansson, P., Hall, L., Sikström, S., & Olsson, A. (2005) . Failure to Detect Mismatches Between Intention and Outcome in a Simple Decision Task. Science, 310(5745), 116–119.
これに対して脳科学では、人が脳で行う情報処理の過程を、脳計測により文字通り「可視化」するというアプローチをとります。そのため、たとえば広告は、クリエイティブが消費者の網膜や鼓膜を通して脳に入力され、感覚的な情報へと処理され、価値や記憶に結び付いて、クリックやかごに入れるという筋肉運動=行動に変換される過程と考えることができるのです。
これまでの「興味喚起→購買意向」などの仮説的かつ概念的な意思決定プロセスは脇に置いておき、「消費意思決定プロセス」=「脳の情報処理」として、そのプロセスを客観的に観測し、モデル化していくことで、マーケティングは進化できるはずです。