コロナ禍以前はDXに舵を切らないことも「合理的な判断」だった
Adobe Summitの面白さは、その実践的な内容にある。業界を代表する様々な企業がマーケティングDXの取り組みを披露するが、登壇者に実務トップが多く、取り組みのプロセスまで具体的に語られる。コロナ感染拡大によって一気に進んだDXだが、それらの企業がなぜDXに取り組み、どうやって進めていったのかがリアリティを持って語られる。
Adobe Summit 2021で特に目を引いたのは、DXの必要性が叫ばれながらも従来のトラディショナルなビジネスモデルから脱却できていなかった業界が、命がけでDXを果たした事例だ。もちろんそれらの業界にもコロナ以前から、デジタルを前提とした新しいビジネスモデル構築の必要性は叫ばれていた。しかしそうした背景をもちながらも、既存の業界代表企業は大きく舵を切ってこなかった。それは切れなかったと見ることもできるが、切らない方が合理的だったという見方もできる。
「せっかく自社はオフラインでの確固たる地位を築いているのだ。顧客は我々を信頼し、店舗に足を運んでくれるではないか。なぜリスクを冒してまで、優位性があるかどうか分からない領域に踏み込む必要があるのだろう?」と考えるのも仕方がなかった。しかしコロナ感染拡大は、その前提であった顧客自身の生活を変えてしまった。もはや現在地に留まる合理的な理由はない。挑戦か後退か。外部環境の変化が、すべての企業にその問いを突きつけた。
大きなジレンマに陥ったヘルスケア業界
特にその中でも大きなジレンマに直面したのが、ヘルスケアに関わる業界である。コロナ感染拡大によって多くの人々が安全に過ごすこと、健康であり続けることの重要性を強く感じることになった。
しかしその反面、顧客が店舗に行くことをためらう環境も続いた。つまりこれらの業界は、「人々の健康を維持し、増進する」という自らの使命を果たせなくなるジレンマに陥ったのだ。このジレンマにDXで真っ向から取り組んだ企業の事例が、薬局チェーンを展開するWalgreensと、フィットネスクラブを展開する「GoodLife Fitness」だ。伝統的なビジネスモデルを持つ企業が、いかにしてその変革に取り組んだのか。
Walgreensは9,000を超える店舗を有する業界代表企業である。コロナの影響で2020年度の店舗売上は微増だが、ECサイトでの売上は前年比39%と急激に伸びている。
Innovation Super Sessionの1つ、「Orchestrating Personalized B2C and B2B Customer Journeys at Scale」に、Walgreensの顧客マーケティングプラットフォーム担当バイスプレジデントを務めるアリッサ・レイン氏が登壇した。
トラディショナル・リテールからの脱却
米国において薬局が果たす役割は、日本と大きく異なる。米国では薬剤師もワクチン注射が可能であり、Walgreensはワクチン接種拠点の提供という役割も担う。コロナ感染拡大によって人々は自由に薬局に行きづらくなる一方で、その役割は非常に大きくなった。
ここでDXは必須の課題となった。「2年前のWalgreensは、正に『トラディショナルなリテール』そのものでした」とレイン氏は言う。常に顧客と地域コミュニティに貢献してきた同社は、リアルとデジタルを融合させることによって顧客のニーズをより理解し、これまで以上に彼らに貢献する必要に迫られた訳だ。
WalgreensがDXを推進するにあたって掲げたビジョンが、まさに「Mass Personalization」であった。まずWalgreensは、7,300におよぶドライブスルー対応店舗を生活必需品のBOPIS(Buy Online Pick-up In Store)拠点として解放した。
次に、全米で最速となる30分以内のBOPIS対応を実現した。
さらに、デジタルツールを使って顧客と医療者をつなぐケアプログラムを拡張。Walgreensは数年前に数多くの医療機関や医療施設と提携したプログラムをローンチしており、電話やネットのビデオ通話を使って医者に相談する「テレヘルス(遠隔医療サービス)」も提供している。コロナ禍における自らの使命を果たすべく、持てる資源を活用し次々とこれらの手を打っていった。
ロイヤルティプログラムを刷新し、顧客体験のパーソナライズを実現
そしてWalgreensは2020年6月にマイクロソフトとアドビとのパートナーシップ契約を締結し、パーソナライゼーションの最適化を図る体制を強化。同年11月には、一人ひとりの顧客とつながる基点となるメンバーへのロイヤルティプログラム刷新を発表した。これにより、すべての顧客接点を横断した「パーソナライズされた顧客体験」を提供できるようになったと同時に、単なる購買に留まらない、「顧客行動を知る1st Party Dataの把握」が可能になった。
2021年の3月時点で、Walgreensはすでに1,500万以上ものワクチン接種を実施し地域社会に大きく貢献している。
同年4月にはUberとの提携により、接種時間の予約と同時に最寄りのWalgreens接種会場まで送迎する車の乗車予約まで完了できる仕組みを発表。これらもすべて、顧客を1つのIDで見る「One View To Customer」が実現できていたからこそ可能になったサービスだ。
1st Party Dataの力を解放せよ
Walgreensはこれまでも1st Party Dataを保有していたが、2年前まではこれを資産として十分レバレッジできていなかったという。しかしいまWalgreensは、1st Party Dataから「新しい収入源(New Revenue Streams)を生み出す」という次の地平を見据えている。
Walmartも既に自社メディアを活用したインハウス広告サービスの展開を開始しているが、Walgreensも2020年末に「Walgreens Advertising Group」を設立。「最先端、フルサービス、パーソナライゼーションドリブンな広告を提供する」ことを掲げ、自社メディアでのB2B広告ビジネスを展開している。ここに1st Party Dataを活用すれば、Walgreensが把握した顧客のニーズや購買行動は、広告サービスの精度を上げていくことになる。
また、2021年1月にWalgreensはFinancialサービスの強化としてクレジットカードとプリペイドデビットカードのローンチを発表しており、これからはファイナンシャル・サービスでも1st Party Dataが活用されていくことになるという。
レイン氏のスピーチで何度も登場したのが、「Unlock」という言葉だ。つまりWalgreensは顧客体験を向上させることによって顧客を理解するデータを手に入れただけでなく、「1st Party Dataの力を解放(Unlock)」し、次のビジネスモデルを手に入れようとしているのだ。だからこそ「これからのマーケターはセールスだけを追うのではなく、ITを活用しより良い顧客体験を編集していくことが求められるようになる」とレイン氏は述べている。
DXで100年前の薬剤師の営みに回帰
最後に、トラディショナルなリテールであったことを自認するWalgreensが、ここまでの変革に踏み切れた原動力を、レイン氏は次のように語った。
「我々が成し遂げたことは、薬剤師が100年以上前から取り組んできたことへの回帰です。彼らが全力を傾けたのは、薬をボトルに詰めて売ること自体ではなく、薬局が地域の健康を守る場になること。我々がデジタルによって成し遂げようとしたこともまた、薬局による誰もがアクセスできるヘルスケアの実現でした」
まさに顧客とのつながりを深め、テクノロジーで顧客の健康とウェルビーイングを実現したのだ。
Walgreensの事例から分かることは2つある。1つは「DXにおける顧客価値の重要性」だ。コロナ禍でその価値実現が脅かされたからこそ、彼らは自らの顧客価値に強烈に立ち返り、顧客体験をパーソナルなものへ転換することを目標としてDXに取り組んだのだ。そして2つ目は、「DXが結果的に新しいビジネスモデルの強化に繋がり、新しい収益獲得への道を開きつつある」ということだ。
次回は、フィットネスクラブを展開するGoodLife Fitnessのセッション内容を取り上げ、引き続き伝統的なビジネスモデルを持つ企業の変革を事例から解説する。