仕事術の本は読むが断じてやらない
実は、仕事術のようなものを持ち合わせたためしがない。
そういえば、10~20代の若い頃は、梅棹忠夫氏の『知的生産の技術』(岩波新書)を読んで「京大式カード」を買ってみたり(もちろん使わなかった)、システム手帳を買ったり(やっぱり数ページしか書かなかった)、古いMacについていたビルアトキンソンの「ハイパーカード」でアイデアノートを作ったり(作った時点で満足した)、山根一眞氏の「袋ファイリング」に感心したり(試そうと脳内シミュレーションしていたら時間が過ぎた)、したことはもちろん、ある。
なので、「仕事術」を書いたコンテンツやツールへの興味や関心は、人並みにはあるのだろう。先日も野村進氏の『調べる技術・書く技術』(講談社現代新書)や外岡秀俊氏の『情報のさばき方―新聞記者の実戦ヒント』(朝日新書)というのを買って、読んだりはしていたことを今思い出した。
ただ、やらないのである。圧倒的に読むだけである。実践しない。まさに怠惰がモチ喰ってコタツで寝ているようなものである。
こういうのをなんていうのだったか…耳学問じゃなくて、読むわけだから「目学問」か。
スゴイ人と自分の越えられない壁
ここに少しすれ違いがある気がするのだが、そもそも、「仕事術」を上梓されているような著者の方々というは、元々「整理好き」であり「几帳面」あるいは「マメ」な方が多いように見受けられる。
その手の本では、よく「まえがき」で「私は生来面倒くさがりやで…」などと謙遜されてはいらっしゃるが、良くも悪くも謙遜の域を出ないのではないかと疑っている。
というのも、編集という仕事柄、著者さんと仕事をしていると、文章を書き、それを一冊の本にするということ自体が、かなり頭の中が整理された人間でないと、できない大仕事だと実感できるからだ。
ブログが盛況の昨今、本など誰でも書けそうに見えるのだが、そこに落とし穴がある。以前、初めて本を書いてもらった著者さん曰く「最初の100ページくらいは勢いで書けたが、その後書くことが無くなる。そっからがものすごい大変」と。
そんな「大事業」を成し遂げ、さらにそれが書店で売れるほど、万人に分かりやすく書いてしまっているという時点で、これら仕事術の方々は、やはりそれなりの「才能」を持ち合わせている。そんな才能の持ち主の仕事術や情報整理の本を開くたびに、なにやら高嶺の花を拝まされているような気分がしないでもないのだ(もっとも読んでいるときにはそこを気づかせないのが、著者の文才なのだが)。
なので、「ここには非常に素晴らしいことがかかれてはいるが、ただ真似してもうまくいかないのではないか?」とやらないうちから、勝手に結論付けて、努力もせず、読むだけで満足する自分がここにいる。それでは読まなくていいんじゃね? という向きもあろうかとおもうが、一応出版業界的なところに身を置いている身としては、基本的には話の種になるものは体験しておこうとするクセがあるので、読んでいるという面があったりなかったり。