マーケティングやPRは暴力的な経済行動にもなり得る
廣澤:高広さんがお話ししたコンテクストを変えるプランニング、コンテクストに埋め込むプランニングの2つだと、前者を選んでしまう傾向がマーケターやPRパーソンには多いように思います。
高広:広告業界やPR業界を目指す大学生たちに「なぜこの業界に入りたいか」を聞くと、「自分たちの企画で人を動かしたい」というコメントが返ってくることがあります。自分が新卒のときも同様でした。この業界の関係者は「コンテクストを変えるような施策」を考えることについて、存在意義となんらかの心地よさを感じている可能性はありますね。
一方でそうした人を動かそうとする、コンテクストを変えようとするような企画を実施した場合、逆にその企画に触れた人たちは不快感を覚えてネガティブな反応が返ってくる場合もある。そう考えると最近起きている広告・PRにおける炎上は、業界関係者の「人を動かしたい」という“おごり”によって起きているのではないかとも思います。
前述したように、社会的なインタラクションが増えている世の中において、広告やPRが与える刺激というのは必ずしもスムーズに、ポジティブに捉えられるわけではなく、まったく別のコンテクストで別の捉えられ方をする可能性もあったりする。このとき、それらの企画に対して拒否反応のほうが強くなり、その結果炎上が起きるんじゃないかと。

そのため、私は社会に埋め込む視点を重視していますが、その視点が抜け落ちている人は多いと思います。
廣澤:コンテクストを変えるプランニングのトリガーである刺激が、拒否反応を起こしてしまい、炎上につながっている。これまで行われてきた広告・PRについて見つめ直すべき時期なのかもしれませんね。
高広:広告やPRに関わる人の多くが、人々の認識を変えようとしすぎじゃないかと思います。広告やPRというのは相反する2つの側面があるんですよ。ひとつは「広告やPRって非力だよね」というもの。「そもそもPRや広告に人々を変えるほどのパワーがあるのか?」と疑問を持ちながら仕事をしている業界関係者は、広告やPRをうまく機能させることができると思います。
そしてもうひとつの側面が「広告やPRって暴力的だよね」というもの。ファッションブランド「ユナイテッド カラーズ オブ ベネトン(以下、ベネトン)」の広告写真を手掛けたオリビエーロ・トスカーニという人物がいます。社会派の写真家でもある彼が1983年から2000年までの間に作ったベネトンの広告は、人種差別やHIV、戦争などの社会的な問題をモチーフにしたもので、決してベネトンの商品が全面に押し出されたものではなかったわけです。
彼が『広告は私たちに微笑みかける死体』という書籍の出版記念セミナーを日本で開いた際にたまたま参加する機会があったのですが、書籍でもその場でも彼が話をしていたのは「広告とは暴力的なものである」という主張でした。普段、自分たちがいち生活者として接する広告は、否が応でも目にも耳にも入ってきて、情報が一方的に送り込まれる暴力性はありますし、また企業側の誘惑的なメッセージが送り込まれるという点でも暴力的かもしれません。
PRも広告もそうですが、企業視点でお金を使って世の中を動かそうとすることは、ある種暴力的な経済活動だと考えることは確かにできると思います。
マーケティングやマーコムと呼ばれるものの中で、実は広告やPRという活動はその中の一部に過ぎないし、そう考えれば「非力」であり、一方で、トスカーニが言うように、情報の送り込み方とメッセージのあり方において「暴力」でもある。この両側面を広告やPRという活動が持っているのだと自省的に業界関係者が考えていれば、本来は炎上やアドブロック問題なども起きないはずだと思います。
そのため広告やPR、マーケティングというのは「あなたの生活の中で、うまく使ってもらえればいいんです」と人々の日々の生活というコンテクストの中に埋め込まれるような提案をすることなんだと思いますね。それができれば、企業の経済活動・マーケティング活動は暴力行為ではなくなりますし、それがたとえ非力であったとしても、そのメッセージを受け取った人々が他の人に伝えてくれるようになり、広告やPR以外、すなわち「他力」とも言えると思いますが、人々の力を借りてマーケティングができるようになるんじゃないかと。
生活というコンテクストの中に埋め込まれるような価値提案……そのような視点を持てるかどうかが重要だと思います。でもこの考え方はまったくもって新しいものではなく、大昔に洗濯機が販売されたころの広告などは、「(洗濯機を使うことで)主婦の時間が増えます」といった、価値提案のメッセージだったわけですよ。僕らはむしろ昔の広告から学ぶことが多いんじゃないかといつも思っています。