契約書類のペーパーワーク削減でフリクションレスに
次に本サミットから紹介するデジタル活用の事例は、米国の中古車販売会社「CarMax(カーマックス)」の取り組みだ。前編のウォルマートの事例よりは身近に感じていただけるのではないかと思う。カーマックスの取り組みも、前編で解説したシャンカー教授の提唱する顧客体験価値向上の図式を体現しており、EXとCXの融合に成功した事例といえる。
読者の皆様が勤める企業でも、コロナ禍を機に電子契約書やハンコレスへの取り組みが加速していると思う。アドビの製品ラインアップには、このような電子サインのツールとして「Adobe Sign」が存在するが、カーマックスでは同ツールを使ってCXとEXの融合を行っている。その具体的な活用領域は、顧客との取引に不可欠な自動車の売買契約だ。
米国には、自動車販売の契約関連書類において「紙で出さねばならないもの」と「デジタルでも良いもの」の2種があり、その分類が州によって異なるという。カーマックスではそれらの事業仕分けを行い、ディーラーの営業担当者によるペーパーワークの削減を実現。さらに、顧客へのフリクションレスな購買体験の提供につなげている。
感心したのは、近年米国で多発するハリケーンなどで住宅や自動車を失った顧客が、ローン支払いの先延ばしを申請したい時、オンラインで実施可能な点だ。さらに、自動車業界においてもEC購買が進展していることを背景に、従来は顧客のカスタマージャーニー内で避けられなかったペーパーワークも、Adobe Signを活用することでデジタルとシームレスに行える環境を構築している。
このような小売業以外でのデジタル活用と購買体験のデジタル化は、まだまだ日本で未発達・未開拓といえる。従業員の業務が効率化するのであれば、顧客の購買体験も効率化・シームレス化できるのがデジタル活用の真骨頂なのだ。
何度も申し上げるが、DXという“果実”を確実に得たいのであれば、EXとCXの掛け算が求められる。筆者としては、次の式が示すように「DX=EX×CX」を実践する企業が日本でもっと増えていってほしいと思う。つまり、デジタルを活用した顧客体験と従業員体験の相乗効果がDXには不可欠といえるであろう。
DX推進に不可欠なパートナーの存在
次に、企業が「デジタル化を通じて顧客に提供したい価値」を理解するために必要な思考法、世界のパートナー企業たちが行うその思考法の提供について考えたい。
Adobe Summitはもちろんであるが、海外IT企業が主催するカンファレンスを観ていて羨ましく思うことは、ITを活用した顧客価値の形成に伴走できるパートナー企業が多数存在することだ。自分でいうのもなんだが、日本においては弊社のようなパートナーがアドビのようなツールベンダーとしっかりとタッグを組んで、クライアント企業のDX実現に必要なIT構築・戦略立案を積極的に行っている。
「パートナーはしょせん部外者」という言い方もあるが、どんなツールも事業会社だけで導入から運用まで実装できるものではない。そのツールの価値を最大限に引き出し、経営陣との戦略構築を共創するパートナーは、最先端企業が集まる米国やヨーロッパでも必要であり、その具体化に向けた戦略的思考法の提供も求められているのだ。
本サミットでは、多くの優秀なパートナー企業がクライアント企業とのDX実践事例を紹介していたが、本稿では最後に「Rack Room Shoes(ラックルームシューズ)」という靴流通業のDX支援サービスを展開する企業「Contentsquare(コンテントスクエア)」の取り組みを紹介したい。注目すべきは同社が提供しているフレームワーク、その名も「デジタル幸福度(Digital Happiness)方程式」である。
顧客は優れた体験にお金を払いたい
弊社顧客時間では、コロナ禍で消費者に起こった大きな変化は「くらしのデジタルシフト」と捉えているが、コンテントスクエアCMOのニキ・ホール氏は、「人々はもはやオンライン上でショッピングだけをしているのではなく、生活自体をオンラインにシフトして生きているのだ。だからこそ、デジタル幸福度が重要だ」という斬新なコンセプトを提示している。
さらに、Adobe Summitでは当たり前のように話されることだが、「今のお客様はブランドにロイヤルティを感じているのではなく、体験にロイヤルティを感じている」というメッセージを発信していた。体験中心ブランドであるためにはデジタル幸福度方程式を構成する次の3つの要素が必要だと述べた。
第1の要素は「Understanding your customer(顧客理解)」。企業に求められるのは、デジタルでのつながりを活用した傾聴の姿勢だ。傾聴の重要性は、近年に急成長を遂げているエクササイズ機器メーカー「Peloton(ペロトン)」でSVPとGlobal Head of Marketing Communicationを務めるダラ・トレセダー氏も「企業文化として根付かせることが大切である」と表現している。
次に必要な要素は「Proactive Strategy(積極的に顧客のニーズを捉え、それを体現した戦略の実践)」。コロナ禍の顧客が最も嫌うことは、デジタル上の体験に生じる不備だ。日本の各行政が陥るコロナワクチン接種予約サイトの不備のような体験は、後々ブランド体験に決定的なダメージをもたらす。故に、そのような不備は放置せず、スピード感を持って対応しなければならないという。そのためにはデータをリアルタイムで獲得し、顧客理解に活用しなければいけないとしている。
最後の「Brand Promise(企業・ブランドとして顧客に果たすべき約束)」は、デジタル体験はもちろんのこと、商品体験、接客体験、すべてを包括的に捉えたカスタマージャーニーにおける顧客満足を指している。
我々も同社の「方程式」に倣い、改めて顧客の「優れた体験にお金を払いたい」という考え方を理解するべきである。これら3つが揃うことが、デジタル幸福度の実現に寄与するのだ。
「DX推進がもたらす良質な顧客体験」をこのように解釈できるパートナーの存在はクライアントにとっても心強いことだろう。Adobe製品を中心に導入、運用するだけでなく、パートナーとともに顧客体験までも共創していくことができるのは、理想のDX戦略推進といえる。弊社でも、デジタル幸福度方程式を実践できる日本の事業会社を応援していきたいと思う。
ビジネスの枠を超えた著名人から学ぶ、豊かな知見
最後に、Adobe Summitの楽しみでもある著名人のセッションから、DXがもたらす社会的価値について考えてみたい。
ここまで解説してきた通り、優れたDX推進企業の今を捉えることができ、そのサポート企業が提供する有益な情報、示唆が得られるのがAdobe Summitを見逃せない理由だが、もう1つの楽しみが、ビジネスの枠を超えた有識者による知見に富んだ話だ。
冒頭のキーノートでは、起業家・投資家としても活躍するプロテニスプレーヤーのセリーナ・ウィリアムズ氏が、自身のビジネスについてデジタルの視点から語ってくれた。また、日本でもビジネス書としてベストセラーになった「TRUST 世界最先端の企業はいかに〈信頼〉を攻略したか」の著者であるレイチェル・ボッツマン氏から、デジタルで顧客とつながる時代における信頼の重要性が語られた。
単なる企業事例ではなく、信頼(TRUST)の重要性を顧客視点・社会的視点から解説されたことで、Adobe Summitのオーディエンスは自身DX戦略の見直しと再考察ができたであろう。また著者の肉声で語られる本人の思考方法が垣間見られることで、改めて著書を手に取る人も多いことだろう。
デジタルがもたらした社会変革への影響
さらに、筆者が感銘を受けたのは「ティッピング・ポイント―いかにして『小さな変化」が『大きな変化」を生み出すか」や、「逆転! 強敵や逆境に勝てる秘密」など、多数の書籍を執筆している英国生まれのカナダ人ジャーナリスト、マルコム・グラッドウェル氏のセッションだ。
彼は著書「逆転! 強敵や逆境に勝てる秘密」でも紹介されている60年代の黒人市民権運動と、2020年米国で大きな社会運動となった「Black Lives Matter」の広がりを対比しながら、デジタルがもたらした社会活動への影響について語った。
彼の解説によれば、マーティン・ルーサー・キングが中心となり社会変革をもたらした公民権運動には、「明確なリーダー・明確なイデオロギー・明確な戦略」が存在したが、Black Lives Matter運動においては「明確なリーダーも、主張すべき明確なイデオロギーも、明確な戦略もない」とした一方、即時性と重層的なアイデア、活動の広がりがあり、それらの要素がこの活動の世界的拡散につながっているという。
旧来の社会において組織や社会は階層化されており、良くも悪くも大きな社会変革やムーブメントを起こすには「密室で、中央集権的に、階層化された組織」が必要であったが、今やインターネットを活用することで「オープンネットワークで、柔軟な、権力の分散化」ができ、スピードを持って社会変革を実現するためには権力の分散化が不可欠であると彼は指摘している。
企業変革にもデジタルの活用を
このような社会変革の見立てには、明確な正解、不正解というものがないだろう。しかし、ビジネスにおいても社会生活においてもスピードが求められ、正解のない時代を生きる我々は、重厚な組織における優れた人材だけが閉鎖的な環境で意思決定を行うことの弊害に、気づき出しているように思う。
コロナワクチンをめぐるゴタゴタや、緊急事態宣言の意思決定を行う日本政府の現状を見て、皆様はどう感じただろうか。顧客も、そして我々企業人も同じ人間だ。その人間を取り巻く環境では、ますます「オープンネットワークで、柔軟な、権力の分散化」が進んでいるのではないだろうか。
筆者はよく大学生や会社の後輩に「会社と社会は、同じ漢字の組み合わせ。順番を変えて、よく見てほしい」という。そこには、日本人は「密室で、中央集権的に、階層化された組織」に依存しすぎであり、故に「会社人」の側面が強すぎることで、自らが「社会人」だと忘れがちである事実に気づいてもらいたい、という想いがある。
コロナ禍で「くらしのデジタルシフト」は一気に加速した。企業と顧客の両方にとって、インターネットは「使いこなすのが当たり前のツール」となった。その結果、社会ではますます「オープンネットワークで、柔軟な、権力の分散化」が進んでいくことだろう。DXとは、そのような社会変革のための重要ツールとなっているのだ。
今からでも遅くない。経営の中心にデジタルという武器を置く意思決定を下し、その活用で企業変革をもたらしてもらいたい。社会はもうそちらにしか進まないだろう。乗り遅れないためにもDX推進に怯んでいる暇はない。デジタル(Digital)化か 、死(Die)か? コロナ後の時代が迫る今こそ、動き出す時なのだ。