本記事は『現場の事例で学ぶ!IT企業のためのBtoBマーケティング 技術・製品・サービスの魅力を確実に伝える方法』(新村剛史)の「第2章 教科書的にはできないITマーケティングの特徴」から「2-2 IT企業におけるBtoBマーケティングの特徴」を抜粋したものです。掲載にあたって編集しています。
ライセンスを通じて権利を販売するということ
B2BにおいてITの製品やサービスを提供することは、ビジネスの課題解決という価値を提供することです。顧客のニーズを満たす製品やサービスを開発し、提供して、顧客のビジネスの課題を解決することで、顧客から対価を得ているといえます。しかし、実際に契約上売買している対象は何でしょうか? IT業界でマーケティングや営業に関わっていても、それを知らない人に出会うことが時折あります。確かに、工業機械やサーバーなどのハードウェアのような有形資産でないソフトウェアやクラウドサービスは、価値の実態がわかりづらいものです。だからこそ、自分が売っているものの実態は何かを把握しておく必要があります。
ソフトウェアやクラウドサービスの場合、基本的にはライセンスという形式で、製品やサービスを使用する権利を販売しています。ソフトウェアをインストールするときの「同意する」というボタンを読まずにクリックしたり、クラウドサービスを利用開始する際の「同意する」というチェックボックスを無意識にチェックしたりしていないでしょうか? 実は、あの読み飛ばしているライセンス条項に定義された、製品やサービスを使用する権利こそがソフトウェアやクラウドサービスとして売買されているライセンスの実態です(図2-6)。
売り手側ですら売買しているものの実態がわかりづらいのですから、顧客にとってはよりわかりづらいものになります。以前は、「インストールメディアを買ったのだから何人にコピーして使わせても構わない」「ソフトウェアを購入したから改造しても構わない」と思っていたという話を何度も聞いたことがありました。最近では少しずつライセンスに対する理解は広がってきていますが、まだまだ正しく理解してもらっているわけではありません。そのような顧客に対して、自分たちが契約上何を提供しているかをきちんと説明する必要があります。
もう1つ重要な点は、使用する権利は持っているだけでは価値を生まないということです。権利を行使し、製品やサービスを使用して、価値を生み出す活動をして、初めてライセンスが価値を発揮するのです。工業機械やサーバーといったハードウェアの有形の資産は所有しているだけでもある一定の価値を持っていますが、ソフトウェアやクラウドサービスは使用しない限り価値を発揮しません。そのため、顧客にとってはライセンスを購入したらそれで終わりではなく、製品やサービスを導入し、そして実際に運用し、組織として価値を生み出すための活動ができるようになる必要があります。このような流れを顧客に理解してもらうことが重要です。
実際、顧客にこの流れを理解してもらうためには、顧客が価値を生み出すための流れとは逆のアプローチの説明が必要になります。つまり、ゴールである顧客が手に入れる価値をまず先に提示して、それを実現する手法を説明していく形です。その際、単に製品やサービスがどのように機能するのかだけではなく、組織として価値を生むためにどのように変化をすべきか、という点も含めて説明していくことが必要です。製品やサービスそれ自体は課題を解決するための道具でしかありません。ましてや、ライセンスはそれを使用するための権利でしかありません。最終的に製品やサービスを活用し、組織として価値を発揮するために組織の活動が変化して初めてビジネスの課題を解決できます。
ビジネスの視点と技術の視点が求められる
IT業界でのマーケティングにおいて、顧客に価値を届けるには製品やサービスを活用して組織の活動を変化させることが必要です。これらをビジネスと技術の2つの視点で考える必要があるのもIT業界におけるマーケティングの特徴です。
B2BにおけるITの製品やサービスは道具でしかありません。その道具をどのようにビジネスの中に組み込んで課題を解決していくかがビジネスの視点、道具をどのように使うのが適切で効率的なのかを考えるのが技術の視点です。実際に、企業でITの製品やサービスの導入を検討する際には、事業部門とIT部門がそれぞれビジネスの視点、技術の視点でステイクホルダーとして参加することが多くあります。
マーケティングにおいて価値を実現する方法を顧客に説明する場合は、これらの2つの視点を分離して考えなければなりません。2つの視点を混ぜてしまったり、間違ったステイクホルダーに説明してしまったりすると、せっかくのメッセージの効果が激減してしまいます。それを避けるためにも、マーケティングの戦略を立てる段階からこの2つの視点を意識しておきましょう。ここからそれぞれの視点について、一歩踏み込んで見ていきたいと思います。
まずはビジネスの視点です。ビジネスの視点はビジネスの課題をその製品やサービスを使ってどのように解決していくかの観点です。製品やサービスを導入したからといって、それだけでビジネスの課題が解決するわけではないことはすでに述べた通りです。
受託開発を行うようなシステムと違い、企業で使用するITの製品やサービスは、汎用的に開発されています。それを企業に導入するにあたっては、少なからず現状のビジネスのやり方と、導入後のビジネスのやり方に変化が発生します。その変化は積極的に起こす変化もあれば、受動的に起きる変化もあります。そのため、それらの変化が製品やサービスが提供する価値といかに結びついているかを顧客に理解してもらう必要があります。その上で、顧客が抱える問題を解決するために有効であるか、またそれを実現するためにかかる負担がどのようなものなのかを検討してもらうことが重要になってきます。
ビジネスの視点で考える顧客は、基本的には課題を解決することへの有効性に着目します。それは前節で説明した通り、最初に顧客が気になるのが、どんな価値を得られるのかが一番の関心事だからです。しかし、実際に顧客と話を進めていくにあたっては、変化を実現するための負担に関しても避けては通れない話です。特にITの製品やサービスはビジネスの進め方に変化をもたらすわけですから、それが大きければ大きいほど得られる価値が大きくなる可能性がある一方、変化を実現するための負担も大きくなります。単純に使う製品やサービスが変わるだけならよいのですが、ビジネスプロセスを大きく変えることも少なくありません。加えて、最近の製品やサービスの中にはチャットツールやドキュメント共有ツールのように企業文化の変化も求めるようなものもあります。その結果、企業の中での文化変革といったところまで踏み込んでいく必要が出てきます。
技術の視点は、道具をどう適切に使うか、どう効率的に使うかの視点です。ビジネスの視点ではビジネスの課題を解決するという効果の面が第一に来ましたが、技術の視点はビジネスの視点と違って、どれだけ負担が少ないかが重視されます。
技術の視点を持つステイクホルダーは多くの場合IT部門です。IT部門は事業部門がITの製品やサービスを使ってビジネスの課題を解決するために邪魔となるような事象が発生しないようにすること、そしてそれを実現するためのコストを抑えることが重要な仕事です。
まずは、ビジネスの課題を解決するために邪魔となるような事象で、真っ先に思い浮かぶのが障害です。障害が多発すればどんなに素晴らしい機能を持った製品やサービスであっても、IT部門は価値を感じません。障害が発生した場合、最悪のケースではビジネスが停止して損害を出してしまうこともありますし、そこまではいかないにしてもパフォーマンスが劣化して、ビジネスの生産性が低下することもあります。また、障害だけではなく、ビジネスにリスクを発生させるような事象もビジネスへの脅威となる点で邪魔となる事象と考えられるでしょう。これにはセキュリティリスクもありますし、操作性などの操作ミスへのリスクなども対象となりま す。
一方、課題解決のためのコストの観点では、金額的なコストに加え、時間的コストも含まれます。金額的コストの観点では、主にライセンス料が該当し、加えてサーバー費用やインフラ費用などのコストが必要でした。もちろん、それらを運用していくための人的コストもかかります。これらを最小化していくことがIT部門の関心となります(図2-7)。
このように、ビジネスの視点と技術の視点でそれぞれが持っている関心事が異なります。誰がどんな関心事を持っているのかという観点は非常に重要です。ビジネスの視点と技術の視点をしっかりと分けるようにしましょう。
最近ではDX(デジタルトランスフォーメーション)ということで、IT部門も攻めのITという形で価値創造に関わるようになってきていますが、多くのIT部門メンバーの関心事は技術の視点から見ていることに注意しましょう。
道具としてのITの活用方法で製品の価値が決まる
B2BにおけるITの製品やサービスが道具であるということは、すでに説明した通りです。つまり、製品やサービスを導入したからといって、すぐに成果が出るわけではありません。
例えば、モータースポーツで速い車に乗っても、その車にあった走り方を覚えないと速いタイムを出せないようなものです。実際に、トッププロのドライバーでも初めて乗った車では、いきなりサーキットで全開走行はできません。完熟走行といわれる車に慣れるための周回を重ねて、走り方を車に合わせることで、その車の真の価値を引き出すことができるようになります。
それと同じように、ITの製品やサービスを導入した場合も、その変化に合わせて活用方法を変えていく必要があります。実際、同じ業務を実行する際に使用するツールを変更した場合、ほとんどの場合でビジネスプロセスやビジネスルールの変更が発生します。これは第1章で説明したように、それぞれの製品やサービスを開発する際に、どのように顧客の要求を実現するかの解釈が異なり、その解釈がそれぞれの製品やサービスの特徴として表れるからです。異なる解釈が発生するのは、顧客の要求への対応の優先順位や顧客の要求を実現する際の解決へのアプローチが異なるからです。特に、従来使用していた製品やサービスを新しいものに乗り換えようとするような場合は、技術面も含めて顧客の要求を実現するためのアプローチが大きく変わっていることがほとんどです。
このように道具としての製品やサービスが変化すれば、それを活用する方法に変化が求められます。そして、その活用方法の変化の幅が大きいほど、そこから生まれる製品やサービスの価値が大きくなる可能性が高くなります。つまり、製品やサービスが変わり、それによって製品やサービスの活用方法を変え、ビジネスの進め方が変わり、その結果顧客が得る価値が大きくなるという一連の連鎖が存在するのです。
しかし、実際のマーケティングの現場ではこの活用方法の変化とビジネスの進め方の変化に関して触れられることはほとんどありません。「この製品を導入することによって、こういった効果が得られます」というメッセージが当たり前のように流れています。もちろん、顧客の目を引くメッセージとしてはそれでもよいかもしれません。ですが、実際に導入が決まるまでの間に、顧客にビジネスの進め方の変化を起こす、または変化を受け入れる必要があることを理解してもらわなければなりません。
はじめにでも触れたグラディ・ブーチ氏の“A fool with a tool is still a fool.”という言葉、訳せば「道具を持っただけのバカは、バカのままだ」の通り、顧客に道具だけを提供して、変化を促さなければ、顧客に価値を提供できません。製品やサービスの価値を顧客に提供するためには、顧客が道具を活用し、変化を起こせる状態になる方法も含めて、顧客に提供するという考えが必要です(図2-8)。
実際、海外のITベンダーの中には、顧客のビジネスの進め方の変化を促すようなメッセージを強く打ち出している企業が増えてきています。私が以前所属していたアトラシアンでは、製品やサービスの説明はもちろん、それと合わせてチームとしてどのような文化を築いていくのか、より力を発揮できるチームになるためにはどうすべきかといったメッセージを強く打ち出していました。なぜなら、チームのマインドがオープンかつ健全になった際にアトラシアンの製品が最大の価値を発揮できるという考えがあったからです。そのため、製品やサービスの説明よりも、チームとしての変化を促すようなメッセージを強く押し出すことも少なくありませんでした。
とはいえ、顧客の側にも変化に対する拒否感が根強くあることも少なくありません。なぜなら、現場の担当者にとっては、企業が成し遂げたいことよりも、日々の慣れたビジネスの進め方でどんどん仕事をこなしていく方にメリットを感じてしまうこともあるからです。
そのような現場の担当者に変化を促す試みは、顧客の企業の経営者や管理職の役割だと思うかもしれません。しかし、経営者や管理職が現場の担当者に変化を促す方法を提示するのもマーケターの役割です。
繰り返しになりますが、マーケティングの役割は「顧客に価値を届ける」ことです。製品やサービスのライセンスを購入してもらったら、それだけで価値が届くわけではありません。実際に顧客に価値を感じてもらうためには、製品やサービスをいかに活用して、その価値を最大限に引き出してもらうための土台づくりが必要です。
特にITの分野では、製品やサービスの導入から価値を感じてもらうまでには大きなギャップがあります。それはITの製品やサービスは非常に複雑な道具であり、そしてその道具を活用するのは人であり、人が変化するためには相応の時間と負担がかかるからです。この「人」に対するアプローチがITの製品やサービスのマーケティングにおいては重要な鍵となります。