今求められる「新たなCX」の再構築
AIテクノロジーが急激に進化する現在、ビジネスや業務の変革はまさに過渡期にあると言える。
まず、AIがもたらすマーケティング業務の変化として、画像・テキスト・音声を横断して扱うマルチモーダルAIの普及がある。これにより、顧客の趣味嗜好や知覚刺激に対する反応がパターンとして把握・予測しやすくなり、高度なパーソナライズを実現できるようになる。同時に、リサーチ、データ分析、コンテンツ制作、資料作成といった作業は自動化・効率化が進む。
TOPPANの服部氏はこうした状況から「結果として、マーケターは反復的な作業から解放され、より高度で創造的な業務に集中できるようになるでしょう」と語る。

AIにより生活者の購買行動にも変化が生じている。たとえば一昔前は、「いかに検索で上位を取るか」「どうやってUGCを活性化させるか」「レコメンデーションに最適化するか」に焦点を置いてマーケティング施策を展開していた。しかし現在、検索結果にまず表示されるのは「AIによる概要」であり、その商品や情報を解説した個々のページを集約し、読みやすい“概要”として整理してくれる。将来的には、企業やブランド発信の情報だけでなく、メディアやSNSの口コミなどさまざまな情報がAIによって要約されることで、より精緻な「自分のためだけのレコメンデーション」が可能になると考えられる。

「生活者の検索や購買の意思決定は、AIレコメンデーションの影響力が強くなり、近い将来『生活者はAIを通してブランドに触れるようになる』ことは間違いないでしょう。つまりAIがブランドと消費者の新たな接点になるのです」(服部氏)
これは「AIに自社ブランドが想起される」という新しい顧客体験設計の重要性が増すことでもある。そんな中でブランド想起の確度を高めるには、既存市場から飛び抜けてブランドの新しい価値観やライフスタイルを提案することが大切になってくる。
AIが提示する選択肢から実際に選ばれるためには何が必要か。タッチポイントとしては、オンラインとオフラインを横断したハイブリッドなトライアル環境が求められ、感情の共有を促す深いブランド体験ができるプラットフォームも必要になる。さらには購入後も、どんなに他社商品の情報や口コミがあふれようとも、その商品を使い続けたくなるような習慣化・定着化を促す設計が不可欠だ。
服部氏はこのように説き、「新たなCX」を考えることの必要性を訴える。
ブランドを生活そのものに根付かせるCXの設計へ
新しいCXが求められる中、マーケターが最も注力すべき領域はただ1つ、「AIが苦手とする人間固有の非合理・非論理な感情や行動を理解することです」と服部氏は言う。
AIは過去データに基づく最適化が中心で、表層的なトレンド追随や、顕在需要の奪い合いに陥りやすい。逆に「なぜその選択をしたのか?」という、背景にある価値観や関係性を読み解いたり、直感的な違和感を抱いたりすることは、AIが不得意な領域で人間にしかできないことだ。だからこそ、AI時代においては人間のマーケターにしかできない「誰がどの状況で語るか」というストーリーの設計や、共感を伴うセレンディピティの創出が競争優位の源泉になる。
「AIが得意なことは、膨大な情報をベースに複雑化する生活行動パターンを把握して、顧客解像度を高めることです。むしろAIは新しい顧客理解のレンズとして活用し、マーケターは観察力と共感力を武器に、生活者自身も気づいていない未充足ニーズや生活変化の兆しを捉え、新たな価値観や市場を創出していくことが、これからの時代のCX作りに必要なことです」(服部氏)

服部氏が言う「生活文化」とは、個人の習慣やライフスタイルを超え、集団に共有される行動様式や価値観のことを指す。たとえば除菌機能付き消臭剤は、消臭効果ではなく「洗濯できない・しにくい枕や布張り家具を清潔にする洗濯用品」という共通認識を築いているし、ウイスキーも「中高年層の男性のステータス」から、ハイボールという形で「大衆向けの食中酒」と位置付けが変化している。だからこそ「掃除・洗濯するから消臭剤を買おう」「飲み会やカラオケでハイボールを楽しもう」と普段の選択肢に入ってくる。
「このように、ブランドを単なる選択肢ではなく生活そのものに根付かせる枠組みとして活動に組み込むことが、新しいCXの本質になるのです」と服部氏は語る。
このCXプロセスは大きく5段階に分けられる。まずは個人が持つ生活意識の変化が起こり、次にUGCや発信を通じて共感の輪が拡大する。そうすると今度は反復による習慣化が起こり、それがどんどん多様化・拡張していって、最後は社会的合意による“当たり前化”となっていく。つまり新しいCX戦略は、この「生活文化形成プロセス」を意図的に設計・推進することと言える。

「キシリトール=虫歯予防」という新しい概念を定着させて習慣化を実現
では、そんなCXを設計するにはどうすれば良いのだろうか。続けて登壇したインテグレートの川又氏は、生活文化形成のプロセスをマーケティング的に捉え直した図として以下を示す。

「この図にあるように、我々はCXを『商材単体の体験演出』に限定していません。CXとは、社会や生活課題の顕在化に始まり、その課題解決の受け皿としての商品選択、そして商品を使い続け(習慣化)、その先で生活文化として定着するところまでを包括する一連のプロセスと定義しています。そのため体験の入口も、『商品』そのものよりは、その上位にある『社会や日常生活における課題』を顕在化することがスタートになります」(川又氏)

つまり、提供する商品やサービスが必要とされる生活課題を顕在化させ、その結果としての商品購入、さらにその先で日常生活の中に定着、生活における文化と呼べる立ち位置まで昇華させていく、そこまでを戦略的にデザインしていくのが、両社が提案する新しいCX設計だ。
川又氏が具体例として挙げたのが「キシリトール素材」だ。キシリトールといえば、虫歯予防ケアの成分として多くの人に知られており、ガムや歯磨きなどの製品に活用されている。
このキシリトール素材の日本市場展開を手掛けたのがインテグレートの代表である藤田康人氏だが、その際に取り組んだのは、キシリトールという素材をアピールすることではなく、「虫歯は治療ではなく予防するもの」という「予防歯科」の概念の具現化、社会実装をすることだった。虫歯予防という新しい認識が普及すれば、それに合わせて行動も変化する。そのキードライバーとして「キシリトール」を位置付けるために、既にキシリトールを国や学校で導入していたフィンランドと連携した研究機関を設立。さらに日本の歯科医師をも巻き込んだ虫歯予防という新しい認識の定着に取り組んだ。

具体的には、開業歯科医の新しいビジネスモデルとして、5年に一度の通院しか見込めない、いわば狩猟型の治療モデルではなく、虫歯予防のかかりつけ医として半年に一度の集客を見込んだ農耕型の『予防歯科』モデルの定着をテーマにCXを設計。歯科医専用キシリトールタブレットや、虫歯菌の減少を可視化できる測定器などを用いて、広く市場やターゲットに予防歯科の重要性や、虫歯予防のために歯医者に通うことの必要性を体験してもらえるコンテンツを仕込んでいった。それにより、世の中で「虫歯予防=日々必要なもの=そのためにキシリトール」という認識が生まれ、キシリトール素材は日常で習慣的に用いる存在となったわけだ。
こうした例は枚挙に暇がない。
川又氏は、他にも米国発のD2Cメガネブランドを例に挙げる。このブランドは、ECならではの独自の商流とそれに基づく「自分に合った眼鏡をより手軽に選べる購買体験」を軸に事業を拡大してきた。さらにその先でリアル店舗を展開、眼科医や学校などを巻き込みながら「日常的なアイケアのためにメガネショップに行く」という習慣行動領域にまで顧客体験を広げている。
「結果、一過性のブームにとどまらず、メガネ業界そのものの在り方を変えるほどの役割を果たし始めている」と川又氏は説明し、生活文化形成プロセスを組み込んだCX体験の有効性を説く。
CXの出発点は「未充足のジョブ」
実はキシリトール素材とメガネブランドの2つのCX事例には、共通する“型”がある。それがクレイトン・クリステンセン氏の提唱する「ジョブ理論」に出てくる「未充足のジョブ」を入口にしていることだ。

ジョブ理論とは、人がある商品を購買するかどうかの決定要因は、「製品の機能や特徴ではなく、人が解決したい“ジョブ(課題)”を解決できるかどうか」にかかっているという理論だ。キシリトール素材は「虫歯」、メガネは「視力」というテーマに関する未解決の“課題”(ジョブ理論では「未充足のジョブ」と呼ばれる)があり、その課題の顕在化・社会への問題提起に始まり、その解決法(=対象となる商品・サービス)の提示にあたっては専門家によるエビデンスを用い、それに基づく自社商品・サービスの有用性の提示、さらにその先で実際の利用シーンにおけるUI/UXの改善や多様なステークホルダーを巻き込んだソリューションを構築していくことで、生活の中でより最適な形で商品・サービスを機能させていく。「そこまでをスコープにCXを捉えていくことがこれからの時代に求められるアプローチだ」と川又氏は語る。
物事をウェルビーイング目線で捉えるための思考フレームを適用してCXを設計
では、生活文化形成に至るCXはどうすれば実現できるのだろうか。川又氏は、CX設計の基本的なアプローチ手法として、以下のような流れを提示した。
まず自社の商材にとどまらず、その商材が属しているカテゴリーや関連概念にまで視座を上げ、そこでは「どんなジョブが解決されているのか。どんな未解決ジョブがあるのか」「未解決ジョブを解決するに当たっては、自社商品だけでなく、何がどのような形で関わっているのか」「どのようなステークホルダーが関わっているのか」といったことをすべて洗い出す。
キシリトールの例で言えば、「虫歯がなく健康的な状態を保ちたい」という未充足のジョブに対し、「歯磨き」「歯ブラシ」といった解決法があり、それらを製造するメーカーや子供たちに歯磨き指導をする保健の先生、当然ながら歯医者さんといった形で、関連するステークホルダーが洗い出される。これらの要素の洗い出しにあたってはターゲットとなる対象者を集めてのデプスインタビューやエスノグラフィーなどの調査手法を用いる手段も有効だ。それにより、生活者が置かれている現状をより深く理解し、「体験の全体像」が見えてくる。
次にこのプロセスで得た様々な情報やそこから導き出されるインサイトをもとに、CXテーマや構成要素を検討していく。具体的には、「取り扱う商材や参入したいカテゴリー、訴求したい概念は、未解決のジョブにどのように関与するのか?」という目線がベースとなる。
非常に難解なプロセスだが、TOPPANとインテグレートは、2023年から進めてきたウェルビーイング起点のビジネス変革サービスにおいて、1つの思考フレームワークを開発し、この難しいテーマに取り組んできたという。

このフレームワークは、「ある商品・サービスが、生活者をどのようにウェルビーイングに導くことができるか」を考えるために開発したツールだ。中央部に「商品」、もしくはその商品が属している「カテゴリー」や「概念」を置いて、これらが「ヒト」「モノ」「トキ」「コト」という対象や領域に対してどのような影響与えているのかをとことん思考していく、その補助線としての活用を想定している。
「ヒト」象限では、自社商品やカテゴリー・概念が誰とどのようにつながっていくのかを考えていく。さらに、「モノ」象限では、その商品・サービスが、他のどのようなモノと連鎖してその魅力を最大化しているのか、「トキ」象限では商品が彩る暮らしを時間や場所を軸に捉えてみる。「コト」象限はさらにその先でどのような社会・文化を生み出していくのかを書き出していく。
こうしてそれぞれの象限で商品はどのような関係性を生み出しているのか?その要素を洗い出し、さらにそこに関与してくるステークホルダーまでを抽出。CX設計のテーマやプロセスへと落とし込んでいくという。
「100円ショップ」を題材に生活文化目線で新たなCXを再定義すると
両社では、この思考フレームワークを使ったワークショッププログラムも提供している。セミナーで紹介されたのは、100円ショップの新たな顧客体験についてのフレームワーク実践事例だ。
たとえば「100円ショップ」の場合、ヒト象限で発想されたのが「子供のお金体験を生み出す場」としての可能性。これは子どもが初めて店員と会話したり購入したりする体験の場(=ポスト駄菓子屋)として、定額でお金の計算がしやすく、ありとあらゆる商材を扱うからこそ目当ての商品にたどり着くのに一工夫いる100円ショップの特性を活かす、という発想だ。
次いで、モノ象限で考えられるのは、100円で手に入る様々なアイテムがあるからこそ得られる、単にお得な買い物ができるということに留まらない価値観の提供だ。100円で手に入れたアイテムを使って自分の暮らしを自分らしくアレンジする「シアワセちょい足しできる」という新たな価値感で捉えると、100円ショップの「様々なモノの価値をブーストするという役割」がクローズアップされてくる。
同じように、トキ象限で見ると「100円ショップは、探せば確かに自分が必要なものが見つかる、そんな期待感を覚える場所」であり、その位置づけを拡大解釈し、「特定日にお店の一角を解放、定額マルシェ」といった催事を開催することで、地域住民との新しい関係性を生み出す装置としての役割を見出すというアイディアがでてくる。
コト象限では、「100円ショップは趣味の道具が安く手軽に手に入る」ことから「なにか新しいことに一歩踏み出す“きっかけ”を与えるという役割」を担うことができるし、そのために商品だけではなく簡易な趣味講座をオンラインで100円で提供することも決して夢物語ではない。
こうしてヒト・モノ・トキ・コトの視点を補助線に、商品が関与すべきステークホルダーと構成要素を見出し、それらをもとに課題の啓発から商品購入、その先での習慣化や生活文化の形成までを見据えた一貫した顧客体験シナリオに落とし込んでいく。これが「AI時代の新しいCX創出の核心」だ。
このCX設計の適用領域は、新規事業や新商品開発の他、PoCやPMFでの実装、協業先探索や理想のエコシステム設計まで幅広い。
AIによる効率化・最適化のその先で、人間ならではの洞察によって未充足ニーズを捉え直し、様々なステークホルダーを巻き込んで商品・サービスを生活文化の一部へと昇華し、自律的に広がっていく未来を描く、――これがTOPPANとインテグレートが提示する、AI時代の新しいCX戦略だ。