政治/経済界で浸透進む行動経済学
楠本:今回は大竹教授に行動経済学の現状、並びにマーケティングとの親和性やマーケターが活用する際のポイントについて聞きます。近年、行動経済学への注目度が高まりつつあると感じていますが、政治や経済界における行動経済学の活用の現状を伺えますか。
大竹:日本ではここ数年で行動経済学の浸透は進んできたと思います。政府や自治体の政策に関しては、ナッジと呼ばれる個人の選択の自由を阻害することなく、各自がより良い選択を行う手助けをする仕組みを取り入れるところが増えています。
たとえば、2017年に日本版のナッジ・ユニットが環境省で発足され、その後も経済産業省などの各省庁でナッジ・ユニットが立ち上げられました。また、地方自治体でもその動きは活発化しております。私も様々な自治体から行動経済学に関する講演を依頼されることも増えました。
楠本:ナッジがどのようなものか知らない読者の方もいると思うので、実際に現場でナッジがどのように活用されているか、いくつか事例をご紹介いただいてもよろしいですか。
大竹:たとえば警察庁は、宿直明けの職員が休みやすいよう、自分で休暇を申請するのではなく、宿直翌日の休暇を原則とし、続けて勤務したい場合は申請する形に変更しました。オプトアウト型と呼ばれるもので、この取り組みは経済行動学会のベストナッジ賞を受賞しました。このように、相手に選択の自由を確保した上で、より良い選択をしやすくなる選択肢を提示するのがナッジです。
経済界全体における浸透度合いは、私にはよくわかりませんが、ナッジを活用したサービスを提供する生命保険会社が出てくるなど、徐々に行動経済学をビジネスやマーケティングに取り入れる動きが進んできていると感じています。
ナッジはどのように決定していく?
楠本:相手に対して「より良い選択肢を提供する」という考え方に基づくナッジは、使い方によってはマーケティングとの相性も良さそうに思えます。
大竹:マーケティングと親和性の高い考え方だと思います。ただ、選択肢の提示が企業側の短期的な利益最大化という視点になっていてはナッジとは言えません。ナッジとはそれを受ける消費者本人にとってより良い選択であることが前提ですから。
楠本:おっしゃる通りですね。ここで1つ課題となるのは、「理屈はわかるけど、どのように実践に落とし込めば良いのか」という点です。そのイメージをつかんでいただくために、実際に各省庁におけるナッジ・ユニットでは、どのようにナッジの検討から活用までを進めているのかについてご教示いただけますか?
大竹:ナッジ・ユニットでは、まず行政や公務員の実務における課題を考え、意思決定におけるボトルネックを探ります。そのボトルネックを、行動経済学的アプローチで理解し、問題の本質をつかみます。その後、行動経済学をもとにした人間の特性を活かし、行動変容を促す仕組みとしてナッジを設計していくのです。
そして、ナッジの候補がいくつか出てきた段階で、実証実験などの検証のプロセスを入れます。その中で良かったものを、実際の行政活動や実務に取り入れていきます。
楠本:なるほど、やはり最初に行う作業は「課題の棚卸し」なのですね。まずはそれを基点として考えるというプロセスは、マーケティング戦略にも相通じます。ここでもう1つ伺いたいことがあります。このプロセスで進めると、色々な「ナッジ施策」の仮説が出てくると想定されますが、それらの良し悪しはどのように判断するのでしょうか。
大竹:多いのは、EASTと呼ばれるフレームワークによる検証です。EASTはイギリスのナッジ・ユニットが考案したもので、EはEasy(簡単)、AはAttractive(魅力的)、SはSocial(社会的)、TはTimely(タイムリー)になります。これら4つの視点から候補となるナッジがそれらを満たしているかをチェックし、課題に対して効果的なものを選択します。
また、これらの視点に加えて倫理的かどうかをチェックすることも重要です。ナッジを悪用してはならないので、倫理的に良くない方向に誘導する、相手を不快にさせる選択肢にならないよう気を配っています。