「広告はヒトを幸せにする」の真意
昔は徹夜で仕事をしたものだ。徹夜を美化するつもりはないけれど、経験としては良いこともあって、夜中に疲れてくると、そこに本音がでることがある。「俺たち、カネのためにやっているんじゃないんだよ」「このクライアントの商品の良さ、もっと別の角度で語ったほうがいいんじゃないか」「もはや競合コンペの勝ち負けはどうでもいい。俺たちがベストだと思う提案を、クライアントにぶつけてみよう。そのほうが絶対に、クライアントのためになる」といったようなことだ。
電通や博報堂とよく仕事をした。というか、仕事を「もらっていた」といったほうが正確だ。彼らから多くのことを学んだ。そして、彼らのほとんどが優しくて暖かい人たちだ。広告業界のコアな部分に、その深層部に、間違いなく“愛”が流れている。電通や博報堂の局長以上など役職者になると、人格の優れた徳の高い人が多い。彼らの部下に対する指導には、その根底に“愛”があると感じるし、様々な個性、ときに型破りで奇抜な人材をも受け入れる器の大きさが広告業界にはある。つまり、その多様性を受け入れる器の底にも、“愛”が脈々と流れている。
広告の仕事を通して、人格が磨かれていく。広告主の想いを真剣に聞く。届けたい相手に届けたい想いを届ける。その想いを受け取った人の笑顔を想像する。ターゲット層の生活者がその商品を買って喜んでいる。そんな姿を思い浮かべる。この商品を手にして一番喜んでくれる人は誰なのか。このクライアントの商品は、誰を最も幸せにするのか? そんな議論を延々としている中で、心の琴線に触れ、人格が磨かれ、図らずも“愛”を知るようになっていく。そんなキザなことは、通常、1ミリも誰も言わない。真顔でそんなこと言う人はいないけれど、電通や博報堂が愛情溢れる企業であることは、間違いない。私は知っている。長年の取引先の多くの人が知っているのではないか。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンは「自動手記人形」という代筆屋の仕事で“愛”を知るようになる。「「愛してる」も、少しはわかるのです」。主人公の少女がそのセリフを放つとき、代筆という仕事はお金を稼ぐ手段ではなく、人の想いを扱い、それを通して、人を幸せにする、誰かの想いを誰かに届けることで双方を幸せにする、そんな仕事だとわかる。コミュニケーションビジネスの基本だろう。広告屋にも通ずる。
どこかの誰かの笑顔のために。広告主の想いを真剣に聞く。届けたい相手に届けたい想いを届ける。その想いを受け取った人の笑顔を想像する。それを長年繰り返していく。自ずと自分も浄化され磨かれていく。
先日後輩の女性から仕事のモチベーションについて質問をされた。「なんのために働いていて、どのようにしてモチベーションを維持しているのでしょうか?」と。そのとき、「愛してる、を少しはわかるようになりたいのです。それがモチベーションです」と言いたくなった。だが、恥ずかしい気持ちが邪魔をする。結局、言えなかった。ドン引きされる気がしたし、そんなキャラでもないし。
でも、広告業界は“愛”で充満しているし、広告主の想いに真剣に向き合い、その想いを届けた相手が幸せになる。何かのきっかけで、その真実に気づくとき、世界の色が一変する。世界が急に鮮やかでカラフルになって、「広告はヒトを幸せにする」と思ってしまう。そうだ、そのとき、あなたの心は解放されて、広告という仕事はお金の手段ではなくなる。キレイゴトに聞こえるかもしれない。でも、そんな瞬間が、確かに、存在する。
だから、仕事のモチベーションと言われたとき、その質問の意味はわかるのだけど、おそらく、見えている世界の色が違う。どうやったら、どんな説明をしたら、この色の変化を体験してもらえるだろうか。わかってもらうには、どうしたらよいのだろう。私自身の未熟さを痛感した質問だった。明確な方法論はまだないのだが、今度会ったら、「愛してる、を少しはわかるようになりたいのです」と言ってみるか(笑)。
いずれにしても、どんな仕事であれ、いや、おそらく、人生のすべてにおいて、「愛情」をもって接することができるようになると、充実するに違いない。そのとき、もはや、モチベーションで悩むことはなくなるのだと思う。