長音はなぜ略されてきたのか?
これまでマイクロソフトが採用していた、またIT業界および工学系でデファクトスタンダードとなっている「長音省略」形は、日本工業規格(JIS)の表記方法(JIS Z8301「規格票の様式及び作成方法」)にのっとったもので、「2音の用語は長音符号を付け、3音以上の用語の場合は(長音符号を)省くことを “原則” とする」という表記ルールとなっている。
つまり“printer”は3音以上なので長音を省いて「プリンタ」となるが、“toner”は2音で「トナ」とはならないで「トナー」と伸ばす。また、つまる音(小さいッ)は数えないため、“hacker”は「ハッカ」ではなく「ハッカー」だ。とはいえ“mapper”を「マッパ」という猛者もいるので油断はできない。
一方、今後のマイクロソフト製品およびサービスで新バージョンから順次移行していく新ルールは、国語審議会の報告をもとにした1991年の内閣告示をベースにしている。ただし、同公示でも、語末の「ar」「or」「er」にあたる音は、原則として長音「ー」で書き表すとしながら、慣用に応じて省くこともできる。例として「エレベータ」「コンピュータ」「スリッパ」が挙げられている(もっとも英語の“slipper”と日本語の「スリッパ」では指し示す履物の種類がそもそも異なる)。
そもそも語尾の長音を省くのは、IT業界のみならず工学系全般における慣用で、戦前からすでにそうだったらしい。これは理科系(自然科学系)では見られず、そのため理科の実験の授業で使ったのは「ビーカー」だけど、工学系の研究室にいくと「ビーカ」と表記されることがある。前述の国語審議会でも理科系と工学系が対立したという話もある。
MSはIT業界のドキュメンテーションを変えるか?
このように工学・工業の世界で長らくデファクトスタンダードだった「語尾長音省略」記法が、ついにコンシューマー(コンシューマではなく)向けIT業界の巨人によって変えられようとしている。確かに「フォルダ」を「フォルダー」とするとなんかアイドルグループみたいだし、「ページャ」のことを「ページャー」というと英語でポケベルのことみたいで違和感がある。
しかし、大手が言えば業界用語になるのもまた事実。通信業界で“traffic”を「トラフィック」でなく「トラヒック」と表記するのは、電電公社(つまりNTT)用語だからとの説もある。
実際のところIT業界のドキュメンテーションは、マイクロソフトの影響を大いに受けてきた。Windowsアプリケーションの入門書では、用字用語の統一をマイクロソフトのスタイルガイドに従うとして編集されたものは多いし、Windows上で動作するアプリケーションを作成したなら、そのドキュメントはマイクロソフトの表記に従わざるをえない。
これまでは「プリンタードライバー」なんて書いてある参考書は素人が書いてるに違いないからあてにならないね、と知ったかぶりをしてこれたテッキーワナビーたちにも寒い時代が訪れたということだろうか。しかし、ウェブ2.0からSaaSへと向かう時代において、いちオペレーティングシステムベンダー(ベンダではなく)の影響力がどれほどのものかの判断は難しいとも言えるだろう。
これまで「コンピュータ」としてきた表記を「コンピューター」と改めはじめるメーカー・ベンダー・メディア・出版社がどれほど現れるか。それをもって業界におけるマイクロソフトの現在そして将来の影響力がいかほどのものか、推し量ることもまたできるかもしれない。