1 マスメディアの終わり
成功しつづけたいなら、時代とともにやり方を変えなければならない
ニッコロ・マキャベリ(1469-1527、『君主論』の著者)
マスメディアが今後も存在しつづけると信じている人がいたら、この本を渡してほしい。細分化がさらに進み、メディアと消費者とが接触するポイントは増加の一途をたどり、マスメディアに取ってかわるコンテンツも続々登場し、消費者をひと塊に捕らえてメッセージを伝達することはますます困難を極めている。
ケーブルテレビのニュース局MSNBCによれば、今日、スーパーには平均4万品もの商品が並ぶ。大衆をターゲットにした商品が減り続けている今、はたしてマスメディアにこだわり続ける必要があるのだろうか?
もはやコカコーラでさえ大衆商品ではなくなった。細分化が進む消費者に合わせて、C2、ダイエット・コーラ、ダイエット・コーラ・レモン味、クラシック・コーラ、チェリー・コーラ、バニラ・コーラといった様々なバーションの展開を強いられている。
かつてはペプシなど眼中になかった帝王コカコーラも、今やペプシと市場を二分する。最大の理由は、多様化した消費者とつながるためにコカコーラは古いマーケティングを使い、ペプシは新しいアプローチのニューマーケティングを使っていることだ。
2005年3月にペプシコ社は、ペプシ・ワン・ダイエットコーラの再発売を発表した。この時、ペプシコ社は従来のテレビを中心としたキャンペーンではなく、イベントや(14章を参照)、インターネット(11章と15章を参照)やトレーディング・カードを使ったキャンペーンといった新しいマーケティング・ツールを駆使したキャンペーン展開した。これこそ正にこの本で言おうとしていることだ。
特定の消費層に向けたテレビ番組、携帯マーケティング、ゲームなど、増殖し続ける新メディアを横目に、マーケター達は、その必要性を感じていてはいるものの、重い腰を持ち上げることをせず、いまだに大衆に効率良く到達できる方法ばかりを追い求めている。
もともとマス・マーケティングは、産業革命から生まれた大量生産・大量消費(ヘンリー・フォードによって築かれたフォードシステム)のためのものだ。現在、我々は情報革命の真っ只中にいるはずだ。情報が社会を左右する今もなぜか、マーケティングや広告の手法は一向に革命がみられない。需要側である消費者は後戻りすることが出来ないほど変わってしまったのに、供給側であるマーケティングと広告は変わっていない。このギャップは埋めなければならない。
唯一残ったマス・マーケティングの桧舞台は、「1984」というAppleの歴史的なテレビスポットで有名な、アメリカンフットボールの王座決定戦「スーパーボール」だ。しかし今や、これさえも崩れ始めた。安直な成功を狙うマーケターの最後の砦と化したのだ。2005年度の30秒枠には、実に240万ドルの高値がついた。過去の成功を繰り返すことを期待するには、とんでもなく高い金額だ。
確かにスーパーボールのコマーシャル枠には、それなりの価値はある。しかしそれは、ゲーム中継の番組枠でコマーシャルが流れるからではなく、テレビCMの年に一度のお祭りとして、ニュース番組や新聞、PRなどでも流れるからだ。また、クチコミ効果も期待できる。特に最近では、スーパーボール枠に流れた広告をインターネットでも見ることができるので、「同僚や友達に送る」といった形のバイラル効果が期待できる。CBSやAOLはコマーシャルの人気投票を行ってこれを盛り上げている。
しかし、その効果・効率をどう定量化するか、投資効果(ROI)をどう検証するか、その広告のインパクトをどのように売上に変えていくか、といった課題は依然残る。
スーパーボールのコマーシャル枠への投資の理由を数人の広告業界者に尋ねと、「継続性」という答えがよく返ってくる。では、新しいメッセージや新ブランド、新商品や新バージョンの立ち上げなど、過去からの継続性が必要でない場合は、どう正当化するのだろう? また、リーボックがナイキの真似をしてクリエイティブなTerry Tateキャンペーン★1をスーパーボールで行ったことは、投資家も含めてリーボックの復活を示すものである、という議論も理解できる。だが、これとて、リーボックがその後、CMを続けていないことを説明していない。
ここには、広告主と広告代理店の利害の不一致がある。フェデックスの広告代理店BBDOがフェデックスに向けて、競合 UPSとの差別化のためにスーパーボールの価値を訴えるとき、彼らは同時に売上を稼いでいるのだ。
また、視聴者の50%近くが女性であるときにも、髭剃りメーカーのジレットにとって効率のよい媒体でありうるのか。スーパーボールでさえ、今まで信じられてきたほどマスなメディアでないことがわかる。
クリエイティブという観点から見ても、1年間のこの一瞬にクリエイティブの総力をかける必要があるのかは疑問だ。クリエイティビティは1年中発揮されるべきではないのか? ここ数年のCMを見るかぎり、クリエイティビティが発揮されているとは言いがたい。
ANA(全米広告主協会)の調査結果によると、広告主の3分の1が、広告会社にはクリエイティブに関しての傲慢なひとりよがりがあると感じている。この傲慢なうぬぼれが、コマーシャル制作費、特にスーパーボール枠コマーシャル制作費の肥大を生んでいるのではないだろうか?
過去のスーパーボール枠コマーシャルのベストCMを選ぶと、必ず10年以上前のものが選ばれ、トップにアップルの「1984」広告キャンペーンが挙げられる。だが、この「1984」の1回限りの成功で広告業界の成功を評価し、残りの364日を無視して非生産的でいていいのだろうか。
スーパーボールを観戦している消費者はどうだろう。酔っ払ってビール片手に大騒ぎをしている消費者が翌日、車を買ったり、フェデックスを使って荷物を送り出したりしたりするとは思えない。
テレビCMは、人と違う事をするのを恐れるマーケターによって作り上げられた神話である。しかし今では、その神話が崩れていることがはっきりしてきた。今こそ、その効果・効率を見直し、台頭するニューメディアに眼を向けるべきだ。
テレビCMの消費者到達率(リーチ)の高さに惑わされてはいけない。製品のターゲット層に絞って集計してみれば、その到達率は実はさほど高くないことがわかる。また、年齢を元にした番組のターゲットという、粗いセグメンテーションによって成り立っていることにも注意しよう。
ニールセンの視聴率は、巧妙に15分間隔で集計されている。高い番組視聴率と低いコマーシャル視聴率が上手い具合に平均されるからだ。1分毎に集計するべきだという議論がなされても耳を貸さず、この15分間隔集計法は繰り返される。
ニールセン社の調査方法にも問題がある。調査は日誌式、モニター式、電話インタビューの3方法のいずれかで行われる。自分の場合ならどうするか想像しながら考えて欲しい。例えば日誌式の場合、どれだけの人が毎日、真面目に、正確に、見たテレビ番組を記述しているだろうか? 記述を忘れ、記憶をたどりながら書いているのがオチではないか? モニター式はどうだろう? モニターのスイッチの入れ忘れにはどう対処するのだろう? 電話インタビューでは、消費者は取り繕って返答していないだろうか?
脳にコンピューターのチップが埋め込まれ、GPSが取り付けられるようにならないかぎり、消費者がどこで何をみているか、正確に把握するのは不可能に近い。もっともそんな日がくれば、テレビCMの無駄さ加減が浮き彫りなるだけである。