アップル・コンピュータとの出会い
杓谷匠(以下、杓谷):佐藤さんの経歴を追いながら、インターネット広告の歴史を振り返っていきたいと思います。インターネット広告業界に入る前はどのようなお仕事をされていたのでしょうか?
大学卒業後、旭通信社を経て、1996年にデジタルガレージに入社。同社取締役インフォシーク事業部長を務め、1999年6月よりインフォシーク ジェネラルマネジャー、2000年12月より同社取締役副社長を務める。2001年にグーグルに入社、日本オフィスのスタートアップ時の統率と、広告事業AdWordsの日本市場での導入、広告配信ネットワークであるAdSenseのルート開拓などをリード。その後、執行役員営業本部長として、YouTubeやモバイル広告の立ち上げに貢献し、2009年まで従事。
佐藤康夫(以下、佐藤):1990年頃まで遡ってしまいますが、アップルコンピュータ(以下、アップル)との出会いからお話しするのがわかりやすいかもしれません。当時私が勤めていた広告会社(旭通信社、現アサツーディ・ケイ)には米国BBDO社と提携していた関係でアップルの取り扱いがありました。私は、日本の自動車メーカーの海外向け広告担当だったため直接の関係はなかったのですが、部署にはたくさんMacがあるという状況で、仕事で使っていました。
Macを使って実際に何をやっていたのかというと、Excel(最初はMac用のソフトとして開発された)やMacDrawという今でいうペイントソフトのようなソフトウェアや、「Aldus Persuasion」(後にAdobeが買収)で企画書を作る、といった程度のことなのですが(笑)。ワープロが世の中に普及する前から今で言うWordのようなドキュメントソフトを使って書類を作成し、Faxで送るというようなことをしていましたね。
自分にとって大きな衝撃だったのは、90年代前半頃にモニターでカラーの画像が映せるようになったことでした。PhotoshopやIllustrator、Quark XPressというデザイナーにとって三種の神器のようなソフトウェアが出てきて、これは大変なことになってきた、という感じがしました。
ある時、海外部で自動車メーカーのディーラー用CI(コーポレートアイデンティティ)デザインをイギリスの会社に発注していたのですが、そのデザイン会社から弁当箱サイズのリムーバブル・ハードディスクが送られてきました。
関係者みんなが「何だこれは?」といった様子でわけがわからないので、社内のコンピュータに詳しい人間に訊ねると、きっとディスクの中にデータが入っているのだろう、ということでした。コンピュータにつなげてみると、Illustratorで描かれたショールームのデザインが入っていて、社内のメンバーが一様に衝撃を受けました。
当時はそういったことをできる人が日本にはまだそんなには多くない時代でしたが、これはおもしろい、便利だし今後広がっていくなと思いました。そこで、当時のアップルの最上位機種、QuadraにDTPに必要なソフトウェアを全部揃え、PostScriptへの変換機械とキヤノンのカラーコピー機など合計で1,000万円くらいかかる機器の購入を稟議にあげたところ、上長が最新のものに理解のある方だったこともあって提案が通りました。当時仕事の付き合いのあったフリーのデザイナーに常駐してもらっていろいろと試していました。インターネットを知る以前に、コンピュータというものに興味を持っていたのでしょうね。
そうこうしているうちに、アップルのビジネスがどんどん大きくなり、製品のラインアップが多岐に渡って複雑になるなかで、当時の営業担当者が匙を投げ、アップルを私が所属する国際部ではなく国内部に移そうとしていました。それはもったいないと提言し、スタッフ部門中心でやっていた方を国際部に引き入れ、アップルのプロジェクトに従事するようになりました。
当時のアップルは丁度マイクロソフトと戦っている最中で、私は『MacWeek』を読みながらこれからのコンピュータの未来を想像していました。次第にアップルの個人をエンパワーメントしようとする姿勢に強く惹かれていきましたね。アップルは、その時代からコンピューターに話しかけてニューヨーク行きのチケットを予約する、といった世界を描いていたのですが、そのほとんどが今や現実のものになっています。
当時のアップルにスティーブ・ジョブズがいなかったせいか、結局その戦いはマイクロソフトの勝利に終わり、アップルは次第に勢いを失っていくことになります。皮肉なことに、その後アップルはスティーブ・ジョブズが戻り、ビル・ゲイツが出資をすることで再び活気を取り戻していくことになります。