Niftyのパソコン通信にはまる
杓谷:当時の佐藤さんはこの時点でコンピュータの世界で働こうという思いはお持ちだったのでしょうか?
佐藤:仕事でコンピュータを扱うし、個人的におもしろいなとは感じていましたが、それでもまだコンピュータは自分には関係ない世界のものだと思っていました。
そんなときに、通信モデムが内蔵されたPCが登場し、出会ったのがNiftyでした。気が付けばNiftyのパソコン通信の深みにはまっていました。私は当時シトロエンに乗っていたのですが、外車の情報は入手しづらい状況でした。しかしNiftyのフランスカー・フォーラムなどに行けば、たくさん情報が転がっている。ネットワークを介してニッチなテーマでも利用者が情報発信して興味のある人たちと共有できるということに驚き、魅力を感じていました。AOLも出てきて、アクセスポイントが日本にもあることを知って、洋書のアクセスキットを買って、四苦八苦しながらアクセスポイントにつないだりしていましたね。
当時、「ファーストクラス」というBBSを立ち上げるソフトウェアがあり、それを導入して海外部のネットワークを構築したり、ドキュメントをアーカイブゾーンに置き、社内で共有できるようにしたりしました。今では当たり前のことですが、仕事でe-mail、というのも含め、当時はなんて革新的なんだと思いました。システム部に内緒で行ったのであとで随分怒られましたが(笑)。
気がつくと社内でMacオタクのような位置づけになっていまして、いつのまにかMacに関する社内の様々なトラブルの対応をするようにもなっていました。
インターネットの衝撃、伊藤穰一さん
佐藤:次に衝撃を受けたのは、1993年に創刊された『WIRED』という雑誌でインターネットというものを知ったときです。そもそも「”@”ってなんだ?」ってまず思いましたね(笑)
それからMosaic(テキストと画像を同一のウインドウ内に混在して表示させることができる最初のWebブラウザ。一般社会におけるインターネット普及の基礎を築いた)というブラウザが出てきて、画像付きのWebサイトが表示されるのを見たときにも驚きました。ショールームであり、広告であり、データベースであり、いろんなものを包括したとんでもないものが出てきたなと。しかし、その頃日本でWebサイトを持っていたのは、自分の知る限りではNTTと伊藤穰一さん(現MITメディアラボ所長。以下、Joi)の会社エコシス(後にデジタルガレージが吸収合併)のホームページ「富ヶ谷」の2つくらいでした。
当時まだ30歳前だったJoiのコラムを読み、強く共鳴したことを覚えています。村井純教授がインターネットのインフラ的な面から様々なことを発信していたのに対し、Joiはインターネットで世界はこう変わる、といったような思想的な話をメインにしていて、その考えに深く頷きました。
私はいてもたってもいられなくなり、「データベース・ブロードキャスト」(笑)というWebサイトの企画書を書きました。アサツーディ・ケイにはアニメ資産があるわけだから、それを海外に発信すればよいのではないかと思ったのです。一応それは実施することにはなったのですが、色々な事情や自分の力不足もあり中々思うように進まず、そのプロジェクト自体からは少しずつ離れていきました。
そんな頃、同期の横山隆治氏(現デジタルインテリジェンス代表)に、Joiと林さんが立ち上げたデジタルガレージを紹介してもらいました。当時、日本銀行を辞めてデジタルガレージのCFOになった中村隆夫さんとも知り合い、気がつくとデジタルガレージに出入りするようになっていました。
ある日、JoiのところにYahoo!を日本市場で立ち上げる話が来ていたのですが、すでに孫さんが先に手をつけ投資をしていました。代わりに、InfoseekというYahoo!より賢いロボット型の検索エンジンがあるからそれをやろう、という話になりました。
今もそうですが、当時のポータルサイトは広告の売り上げが主たるビジネスモデルだったので、広告のことをわかっていて、なおかつインターネットについても造詣が深い人が重宝されており、ご縁ができたという感じです。
Yahoo!にはWebサイトをカテゴリーに登録したり審査をする「サーファー」と呼ばれる人が手作業でディレクトリを作っていた。
