20代で一部上場企業倒産のど真ん中に
西口:この連載では、経営視点を備えたマーケターのキャリアにも注目しているのですが、田中さんは異彩を放っていますよね。帝京大学ラグビー部出身、スーパーマーケットのヤオハン、その倒産を経て制作会社、広告代理店を起業され、はなまるから吉野家へ。控えめにいってもかなり……。
田中:めちゃくちゃですよね(笑)。今も吉野家CMO、コンサルティング会社の経営、そして日本スポーツ協会の広報委員という3つの顔があります。
西口:120%くらい働かれている(笑)。ヤオハンでは、20代ながら経営企画としてまさに会社の解散を手がけられた。相当、ハードな経験ですよね。
田中:ダイエー・ジャスコ(現イオン)に会社を半分売りましてね。山一証券の倒産よりも前のことでしたから、まさか一部上場企業が倒産するなんて僕らも世間的にも発想がなかった。でも、20代でアジアを回らせてもらって帰国したら、おかしな数字があって。
一応、会社に義理立てして僕は最後まで転職活動をしなかったので、ラグビー部時代の先輩の経営していた制作会社に入らせてもらったんです。そこで仕事を覚えて、広告代理店を立ち上げました。「女子十二楽坊」って覚えてます? 中国の古楽器演奏の。
西口:もちろん! 紅白にも出ましたよね。
田中:彼女らを見つけて日本へ紹介したのが、僕らなんです。銀河系軍団と呼ばれたサッカーのレアル・マドリードが来日を検討していると聞きつけて、交渉して権利を獲ってアレンジしたりもしましたね。2003年だったかな。
結局、90年代の日本で上場企業の倒産の中心にいて、既成概念が崩れ去った。ああ、20世紀の人たちの常識はもう非常識なんだと実感したことが、21世紀のやり方は自分で作るという考えの根幹になっています。
社長とは1時間以内に返信する関係
西口:広告の制作がわかったからといって、簡単に代理店を軌道に乗せられるわけではないですよね? けっこう、複雑な商習慣があったりしますし。
田中:そうですね。そこはゼロから学んでいきました。僕はもう捨て身なんで、そういうところが気に入ってもらえたのか、広告業界の重鎮の方々にもいろいろ教えてもらいました。
「世の中には3種類の先生がいる。やさしいことを難しく教える先生。難しいことを難しく教える先生。難しいことをやさしく教える先生。誰がいちばん良い先生か? それが本質なんだ」という話は、今でも胸にありますね。実際、広告業界にはカタカナ用語や業界用語が当時から多くて。調べてもわからないことだらけで、周囲に聞くと「俺も知らねぇよ!」と言うんです。
西口:知らないまま使っている。
田中:そう。あ、この人たち、僕ほど本気じゃないんだ、練習のための練習をしているんだとわかったので、それなら十分に勝てると思いました。そこからさらに、死ぬ気で勉強しましたね。凝り固まった前提知識がなかったことは、むしろプラスでした。
西口:吉野家ホールディングスには、どういった経緯で?
田中:株式会社はなまるうどんへの飛び込み営業だったんです。飛び込みといっても、経営企画の視点で相当シミュレーションして臨んでいたので、結果的に3時間も話を聞いてくれたのが、当時はなまるにいた、現・吉野家ホールディングスの河村泰貴社長でした。その場で僕に任せると決めてくれて、僕がその広告代理店を売却したあともずっと“社長の夢実現担当”として併走させてもらって、今に至ります。今では社長とは、LINEで1時間以内に返答するくらい密にやり取りしています。