「Human Copy Right」や「Data Work」という概念
昨年10月に開催された電通総研セミナー「『AI』は雇用を奪うのか? 未来社会における『人間の「存在意義」を問う』で、作家・ジャーナリストの佐々木俊尚さんと経済学者の井上智洋さんをパネルに招いた。
そのファシリテーターを務めた私は、パネルディスカッションの最後の質問として、「たとえば、佐々木俊尚さんの過去の書物や記事などをすべてコピーして、まるで佐々木俊尚さんが書いたのと同じような論調と文体の記事をAIロボットが書いてしまったり、井上智洋さんのすべてのデータをコピーして井上先生の代わりに大学で講義をしたり論文や本を執筆してくれるAIロボットが出現したら、どうでしょうか?」と問いかけた。
どのような議論が展開されたかは、電通総研サイトの記事に譲る。ただ、私が言いたかったことは、そのときには、人間を情報として扱い、その情報に対して「人間の著作権(Human Copy Right)」を規定しておかないと、仕事を奪われるだけではなく、そのほかの社会的なトラブルが発生するということだ。
たとえば、井上先生のAIロボットが代行して講義をする。論文を書く。そのとき、その講師料や執筆料は誰のものになるのか? 仮に、そのAIロボットを開発したのがGoogleだったとすると、講師料や執筆料としての収入はGoogleの売上になるのか? 井上先生の収入になるのか? あるいは、そのAIロボットが何らかの事故や犯罪を犯したとき、その責任はGoogleが取るのか? 井上先生が取るのか?
AIロボットの事故や犯罪については、おそらく、テスラの自動運転事故と同じように、議論が展開されていくし、法整備も進んでいく(参照:「テスラ車の死亡事故から、人類が学ぶべき『絶対にやってはいけないコト』)。
では、AIロボットの講師料や執筆料に関してはどうなのか? つまり、人間の情報をコピーした時の著作権(copy right)をどう考えるのか? 講師料や執筆料は、Googleの売上になるのか? 井上先生の収入になるのか?
2014年にノーベル経済学賞を受賞したジャン・ティロールは、「利用者が提供した情報と、その情報の処理や加工との間に明確な区別があるとすれば、とるべき方針ははっきりしている。情報は、提供した本人に所有権があるということだ。<中略> このように、生データの所有権は提供した本人に帰属し、処理済みデータの知的財産権は処理をした企業に帰属すると考えるのが自然だ」(『良き社会のための経済学』)と主張する。
つまり、ジャン・ティロールの主張を私なりに解釈すれば、AIロボットの講師料や執筆料は、生データを提供する井上先生と、その生データを処理してAIロボットを提供するGoogle(開発者がGoogleと仮定)との間でシェアするのが適切だと思う。

このジャン・ティロールの発想は、EUのGDPR(一般データ保護規則)にも影響し、アメリカのカリフォルニア州CCPA(消費者プライバシー法)にも波及している。現時点では、これらの規制は、プライバシー保護という論調が表面的には強いものの、その背後には、生産要素(手段・資源)を巡った闘争が隠れている。
Financial Timesは、2019年2月に「Facebook cases point to data’s value as an asset」(フェイスブックのケースはデータが資産であると暗示している)という記事を載せ、カリフォルニア州の「データ配当金(data dividend)」について書いた。
「More recently, California governor Gavin Newsom has proposed a “data dividend” that would facilitate consumers being paid by Big Tech for data, much as citizens in Alaska have been paid for the extraction of the state’s oil resources.」
(意訳:最近では、カリフォルニア州ギャビン・ニューサム知事が「データ配当金」という提案をしている。IT大手企業に対し、個人情報を利用する際は「データ配当金」なるものを支払うことを義務づける。データが石油と同じように資産価値があるなら、アラスカ州市民が石油の対価として莫大な利益の一部を受け取るのとまったく同じ発想だ。)
石油とは20世紀の資本主義を駆動した代表的な生産要素(手段・資源)だった。21世紀は、人間の情報が資本主義を駆動し始めた。
この「データ配当金」の概念は、マイクロソフト首席研究員でもあり経済学者であるグレン・ワイルの考えを土台にしているようだ。グレン・ワイルは、共著書『Radical Markets』で「Data Work」という概念も提示して注目されている。
「Data work, like “women’s work” and the cultural contributions of African Americans at one time, has been taken for granted. In the case of women, the extensive labor required to raise children and manage the home was treated as “private” behavior, motivated by altruism, that was outside the economy and hence not entitled to financial compensation or legal protections.」
(意訳:データ労働は、女性の家事労働やひと昔前のアフリカ系アメリカ人の文化的な貢献のように、当然のことと考えられている。女性の場合、子育てをするとか家事をする仕事は「プライベート」な活動と扱われ、利他的な活動とみなされている。そのため、経済活動の外に置かれて、金銭的な報酬も法的な保護にも値しないとされている。)
私は、現状では経済活動の外に置かれている「Data Work(データ労働)」を、仕事として法的に位置付ければ、ある意味で雇用を生み出すことになると考える。つまり、人間のデータを経済活動に利用する場合、「人間の著作権(Human Copy Right)」を法整備すれば、現時点では「金銭的な報酬も法的な保護にも値しない」とみなされている行為に対して、法的な保護と金銭的な報酬を与え得る。