パン焼き職人兄弟が始めたアディダスとプーマ
第一次大戦後、パン焼き職人だったアドルフ(アディ)は戦場から帰還したルドルフ(ルディ)と組んで、ダスラー兄弟商会を設立し靴のメーカーとしてのスタートを切る。といっても資本もなかったので、村はずれの水車小屋に捨てられていたフェルト工場からコートなどを裁断したあとの端切れ布を材料にして、体育館用の室内履きの製造を始めたのである。
これがあたった。根っからのスポーツ好きだったアディはその後、競技別のシューズを次々と開発していった。1936年のベルリン五輪ではダスラー商会社のスパイクを着用したジェシーオーエンスは4つの金メダルを獲得した。アディは純粋にスポーツに貢献したいという思いで、トップアスリートに自社製のシューズを無料で提供したようだ。
第二時世界大戦中に、ナチの軍靴を製造していたダスラー商会社の製造工場は、ニュルンベルクの大空襲で跡形もなく焼失した。戦後に経営方針の違いから袂を分かった兄弟は、ルディが「プーマ」を、アディが「アディダス」を設立。身内同士の販売戦争は、その後世界規模で展開され、結果的に70年代に世界のスポーツ用品業界はダスラー兄弟に席捲されることになるのであった。
メダリストを使ったプル型マーケティング
メルボルン五輪に際して、アディの息子のホルストは母のケティーの命を受け、現地に自社製品を大量に持ち込み、メダルをとる可能性がある選手に無料でシューズを提供した。
この事実がバレ、豪州のアディダス代理店から「商売の妨害行為」だとして訴訟騒ぎが起きる。なぜ、そこまでして高額な自社製品を履かせたかったのか。
実はこの大会の直前に電送写真が実用化され、競技の結果は毎日、世界中の新聞のトップに「写真入り」で報道されるようになった。おかげで、競技者はメダリストの履く靴がどこのメーカーなのか、直ぐに知ることができるようになった。メーカー側からすれば、無料でしかも効果抜群なマーケティングができるのであるから、商品の提供などは取るに足りない出費だったのである。何しろ24時間以内に世界中のアスリートが新聞で「3本線」を拝むことになったのだから。
これはMBAなどでは「プル型マーケティング」といわれるやり方である。つまり、「憧れのブランド」を確率し、皆がそれを利用したいと思わせる。そのためにメディアを有効に使うこと。見事な成功事例だといえよう。

初代のアディは、純粋な靴職人であり、靴以外のもの、たとえばボールやウェアなどの製造には最後まで難色を示した。2 代目のホルストは、母の血を受け継いだ根っからの商売人で、マーケティングの才能に秀でていたのである。
ホルストは後に、Wカップや五輪のマーケティングにかかわるようになり、85年に電通とのジョイントベンチャー「ISL社」を設立し、世界のスポーツビジネスを牛耳るようになって行くのだ。
前回の「魔法の水着、レーザーレーサー」事件の源流は、1936年のベルリン五輪のジェシーオーエンスにまでさかのぼる…の巻はこれまで。お後がよろしいようで。