顧客の心を動かす「情質価値」マーケティング
また、サッポロビールでは「情質価値」という独自の価値を定義し、それを顧客の中に創造することを重視している。「情質価値」とは、「顧客の感情の質を高め、人生を豊かにする価値」のことを指す。単に商品の特長や機能を伝えるのではなく、ブランドを通じて自然と顧客がポジティブな感情を得られる体験を提供することを目指している。
広告のアプローチもこの考え方に基づいて進めているサッポロビールでは、商品のスペックや特長を前面に出す「機能価値の訴求」から、「ブランドの姿勢を伝えることで共感を得る」マーケティングへとシフトしている。
「私たちは、広告を見てから商品を選び、購入するという消費行動自体が崩れているという前提に立っています。むしろ、偶然的な出会い体験を通じて『なんかいいな』と感じてもらい、その後に広告の世界観に気づき、共感してもらう流れが、ブランドとのリレーションシップを強固にすると考えています」(武内氏)
この戦略を象徴するのが「サッポロ生ビール黒ラベル」のマーケティングだ。例えば、現在の「黒ラベル」は、単なるビールの味ではなく、『丸くなるな、星になれ。』というメッセージを掲げ、顧客にブランドの世界感を訴求している。このメッセージは、顧客が自分自身で解釈し、共感を深めることで、ブランドとの結びつきを強くする役割を果たしている。
「『黒ラベル』の広告では、理想的なライフスタイルを押し付けるのではなく、顧客が自分なりにブランドの意味を見出せるような構造を作っています。だからこそ、飾らない自分を大切にするブランドの姿勢が共感を生むのだと考えています。お客様がブランドを好きになり、自分で選ぶ理由を見つけることが重要なのです」(武内氏)

「素の自分に戻れる」ことを重視した「黒ラベル」のブランドの姿勢について、久保田教授も評価する。
「多くのビールの広告は、成功者が楽しそうに飲んでいるキラキラした世界観を描くことが多い。しかし、それがかえって消費者との距離を生んでしまうことがあります。一方、『黒ラベル』のように『素の自分』を肯定するアプローチは、消費者が共感しやすく、ブランドとの一体感を強める効果があるのでしょう」(久保田教授)
ブランドは一日にして成らず――長期視点が成功の鍵
とはいえ、ブランドの価値は短期間で確立されるものではない。ブランド・リレーションシップを確立するには、一過性の施策ではなく、長期的な視点での取り組みが不可欠だ。顧客との関係性を築くには時間がかかり、短期的な成果を追い求めるだけでは、ブランドとしての強い結びつきを生み出すことは難しい。
この考え方は、「黒ラベル」のブランド戦略にも通じる。武内氏によると、2010年に始めたCM「大人エレベーター」は、売上という指標だけで見ると、初めの5年間は直接的な影響は限られていた。しかし、ブランドの軸をぶらさずに継続することで、徐々に顧客との関係性が強まり、長期的なブランド資産の構築につながった。
この「やめずに5年間続けたこと」について、久保田教授は高く評価する。教授は、300ブランド・10年分のデータを基にした研究を紹介し、「ブランドは良いイメージを持たれるとシェアが向上するが、2年以内には目に見える成果は出ない」と指摘。短期的な効果を求めすぎると、本来得られるブランド価値を十分に引き出せない可能性があるという。
そして、ブランド構築が長期間にわたって影響を持つことを次のように語る。
「ブランディングは即効性のある施策ではありません。しかし、一度確立されると、5年、10年、さらには30年以上にわたって効果を発揮する可能性があります。だからこそ、短期的な効果だけを求めるのではなく、ブランドの一貫性を保ち続けることが重要なのです」(久保田教授)
例えば、男性が20代で使い始めた化粧品ブランドを50代、60代になっても使い続けることは珍しくない。ドラッグストアの棚の下には「これ、いつの時代の商品?」と思うようなものが並んでいることもあるが、広告をしなくても売れ続けている。これは、ブランディングの効果が何十年にもわたって持続する証拠だ。