それは自治体の怠慢か?
「災害時に、一般からの救援物資の受け入れを拒否する」この長岡市や鳥取県の宣言に対し、憤慨する人の心中はたぶん以下のようなものだろう。
「一般からの救援物資の受け入れを拒否するとは、言うに事欠いて、何と不埒な文言を計画書に明記したことか。救援物資の受け入れ作業が大変だ、倉庫で山積みになって腐ってしまったなどとは言い訳。それは救援物資を届けたことが悪いのではなく、あなた方自治体の受け入れ体制がなってないせいだ。人々は、新潟の人が、冬の最中の被災で、さぞや寒かろうと心から同情して毛布を送っている。お腹がすいているだろうと思って、インスタント食品その他を送っている。その善意の救援物資を、保管して、仕分けて、気の毒な人に等しく届けることこそ、国民の税金で運営される行政体の仕事であろう。それを、自分たちの努力不足を棚に上げ、それだけならまだしも、個人からの救援物資はお断りするなどという失礼千万な文言を市の文書に明記するとは、庶民の善意を何だと思っているのか」と。
私も、昔なら同じように思ったかも知れない。だが3年前に起業して、会社経営を始めてからは、そんような感想はとても持てない。いやあ、長岡市や鳥取県の気持ちはよくわかる。救援「物資」をもらっても、役に立たないどころか、有害ですらありうる。
自治体の気持ちを想像してみる
長岡市や鳥取県の気持ちはきっと以下のようなものではないかと推測する。
「救援物資がみなさまの善意の賜だとはよくわかっています。ありがたいことです。たしかに、段ボール箱に使用済みの下着やぼろぼろの毛布を詰めてくるような、常識を疑う届け物もありますよ。でもそれはごく一部の話。ほとんどの救援物資は、混じりっけ無しの尊い善意の賜です。はい、それはもうお気持ちは十分ありがたい」
「でもね考えてみてくださいな。10個、100個、1000個と山のように段ボール箱がやってくる。それを開ける。中身をより分けて、毛布は毛布、カップラーメンはカップラーメン、ゴミはゴミと選り分ける。選り分けて、所定の場所に保管する。あ、今、所定の場所と言いましたけど、そんな場所があらかじめ確保してあるわけじゃないですから。地震が起こってから、倉庫を探すわけですから、場所の確保からして大変ですよ。災害で混乱している時には」
「さっき段ボール箱1000個で『山のように』と表現しましたけど、実際、長岡市にこの前の地震で届いたのは、10トントラック450台分、4万7000件ですから。4万ですよ、4万。それだけの量の物資を、仕分けて、選り分けて、必要なところに届けてって、そういうの企業の物流部門とかがお金と人をかけてやってることじゃないかと」
「でいないっての。地震で、てんやわんやの時に、物流のプロでも何でもない公務員には、無理だって。だから、正直言って途中からは、来た段ボールを放り上げて、積み上げてるだけ。中には生ものが入った袋もあって、腐って変なにおいしてきたりして、倉庫の床には変な腐った汁みたいなのもたまったりけど、かまってられないです、実際。」
「『頼むからもう来ないでくれ、救援物資』と思いましたけど、断れないですよ。だって『善意』だし。だったらもう、決まりを決めて、そのルールを盾にして、物資は丁重にお断りする。それしかないです」
モノは、保管費用がかかる
洞口勝人の著書「 なぜ、スーパーの1万円の売上げは80円の利益にしかならないのか」によれば、「1枚1000円のTシャツは23円の綿からできている」そうだ。かようにモノの原価は安い。高いのは加工費や、人件費や、流通費用。在庫保管費用である。
原産地から、物を運び、保管し、仕分け、最終販売場所に出荷する、いわゆる物流、ロジスティクスは、多額の費用を要する。費用を要するということを言い換えれば、お金がバンバン出ていくということである。
そのような多額の手間と費用がかかる「物流」、「在庫管理」を、災害に遭って苦しんでいる、自治体に強いるのは、非情なしうちだ。長岡市や鳥取県が条例を作るのもよくわかる。被災地に物を送ってはいけない。それは受け手に、在庫保管費用を強いる。
しかし、災害で苦しんでいる人に、何かをしてあげたいと思うのも、人情である。モノを送るのがいけないのなら、どうすればよいのか。
長岡市に電話して、聞いてみた
先日、長岡市役所に電話をかけて、以下のような質問をしてみた。
「長岡市は、個人が救援物資を送るのはお断りとのことですが、では、個人がお金を送りたいという場合はどうですか」と。
お金は良いですと明言はなかったが、否定もされなかった。どうもOKのようだ。ちなみに、鳥取県の防災計画書にも、「個人からは、原則義捐金として受付」と明記してある。自治体としてはモノはいらないが、お金は歓迎のようだ。
この方針に対し、「救援物資はいらないけど、お金は歓迎? なんじゃ、そりゃ」と反発を覚える向きもあろう。 「結局、最後はカネかよ」と庶民としてはスネたくもなる。だが、そうした情緒的な判断をやめて、合理的に考えるならば(=被災地の立場に立ってみれば)、救援手段としては、やはりお金が有効だ。