デジタルの限界を感じてテレビCMも手がけた
押久保:今回は板澤さんに新著『Work in Progress デジタルマーケティングで大切なこと』についてと、これからのデジタルマーケターがどういった考えや視点を持つべきなのかをうかがえればと思います。
一言でマーケターと言ってもデータ分析をしている人、広告やWebを運用している人、クリエイティブを担当している人などさまざまです。その中で板澤さんはテクノロジーやデータサイエンスといった新しいマーケターのあり方を体現されてきたお一人だと思います。
板澤さんは長らくリクルートで仕事をされてきて、最近退職されたばかりとのことですが、デジタル領域のマーケターとしてどんな思いをもって仕事をされてきたのでしょうか。
板澤:僕は情報誌など紙メディアのイメージが強かった時代のリクルートに入社しました。オンラインの事業に携わりたいならほかの選択肢もあったんですが、自分でプロジェクトを考えてチャレンジできるカルチャーがあることを知り、リクルートがいいなと思ったんです。まだデジタルは未開拓の領域でもあったので、自分には大きなチャンスがあると考えました。
ただ、大学ではUIの研究をしてきたので、広告やマーケティングの経験はほとんどありませんでした。しかし、新しいデジタル広告が台頭してきたのもその頃なので、経験というよりも新たな手段を取り入れ、活用するまでのスピード感のほうが求められると考えました。
その頃は特にリスティング広告や純広告などのオンライン広告とサイトの検索エンジン最適化が重要な時代でしたが、リクルートの規模だと出稿量もレスポンスもものすごい量とスピードなんです。これはすごいな、と衝撃を受けて、そこからずっとデジタルマーケティングに携わってきました。
多くの企業ではデジタルに可能性を見出していると思うんですが、大きな規模でデジタル広告をやり続けるとその限界が見えてきます。コストが適正なのか検討が必要になり、施策の結果をどう評価してビジネスに活かしていけばいいのか考えなければならなくなりました。
そしてデジタル広告にはできないことがあると思い至り、テレビCMの専門部署と兼務させてもらうことにしたんです。
押久保:まさに「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」というリクルートの旧社訓ですね。
板澤:そのとおり、自ら機会を創り出したんですね(笑)。その結果として、デジタルマーケティングにおいてもテレビCMをどう利用するかが非常に重要だということに気づきました。
テレビCMはデジタルに比べてトラッキングが難しいと言われています。だとすれば、トラッキングができるようになるとテレビもデジタルと同じように扱えるようになると考えました。そこで自分でシングルソースパネルの調査手段を構築するなどいくつか実験をしました。
いまではさまざまなソリューションが登場していますが、それをうまく使えばテレビCMの効果をオンライン上でトラッキングでき、どう購買につながったのかも推測することができます。誰もがオンライン広告のようにテレビCMを利用できるようになりつつあるのはすばらしいことで、本書でも「第7章 テレビCMのPDCA」で言及しています。
押久保:以前お話ししたとき、板澤さんは「テレビCMも手がけている」とおっしゃっていました。テレビCMを扱う部署は企業の中でも花形ですが、板澤さんはほかの企業の方とは全然見方が違うなと感じていました。その背景には「どうすれば費用対効果を上げられるのか」「どうすれば効果を可視化できるのか」という課題があり、それに貪欲に取り組んでいたということなんですね。
マーケターはツールの導入だけでなく定着にも責任を持つべき
押久保:昨年、ライオンさんが宣伝部の機能を再編し、傘下の組織を変更するとともに「コミュニケーションデザイン部」に改称すると発表しました。広告業界の歴史から見ると、これは「事件」と言えるかもしれません。テレビCMを中心にプロモーションしてきた企業でも、デジタル的な視点を重視し始めたことの現れではないでしょうか。
板澤:たしかにそうだと思います。顧客がスマホなどを通じて日々多くの情報を受け取る中で、企業が一方的に発信するだけでは顧客に受け入れられづらくなってきているということだと思います。特にデジタルにおいては、顧客一人ひとりに合った情報やコンテンツを届けることができますが、そうした自社メディアや商品を通して、顧客と広い意味でのコミュニケーションをする中で重要な考え方が、いかに顧客体験をよりよくできるかということです。
顧客が意識的・無意識的に求めるものを理解し、それを適切なタイミングでストレスなく提供するなど、顧客体験をよくするという視点でトリプルメディアの活用や商品の改善を行っていけば、結果的にそれは自社メディアや売上の拡大につながっていきます。
しかし、顧客体験をよりよくしていく中で、顧客それぞれによって異なる体験をどう評価するかが課題となります。一人ひとりの顧客体験を評価するのはデータ解析の領域です。これからのデジタルマーケターに求められるのは、データを利用して改善していくことだと思います。
とはいえ、自分でデータ解析を極める必要はありません。簡単な解析はできるようになる必要はありますが、難しい解析はデータサイエンティストに任せて、マーケターはデータからどうやって新しい価値を生み出していくかが重要です。
押久保:いわばマーケターはデータサイエンティストと顧客をつなぐ橋渡しの役割なんですね。
板澤:僕もその考え方を貫いています。新しい技術やツールの期待だけを煽るのは避け、データで実際にどういうことができるのかを具体的に説明する役割です。例えばビッグデータやマーケティングオートメーションにしても、その概念が登場したときはいろんなことが可能になると大きな期待を煽りました。ですが、マーケターとしてはそれを利用して結果を出すことで評価されなければなりません。
僕はリクルートジョブズ在職中にデータサイエンティストと共にいろんな予測や最適化などを行う数理モデルを作りました。でも、そうした数理モデルは、作るよりも実際のビジネスの現場で使い続けてもらうのが一番大変なんです。使ってもらってフィードバックがあるのはまだいいほうで、気づいたら自然と使われなくなっていたということもありました。ですが、マーケターなら数理モデルにしろツールにしろ、現場でちゃんと使ってもらうことにも責任を持つ必要があります。
マーケティングを改善し効率化していくうえで新しいことにチャレンジするのは大事ですが、自分が媒介者にならないと社内には浸透していきません。導入するだけでなく、定着させることもマーケターとして大事なポイントです。
押久保:リクルートにはツールにしろ何にしろ「とりあえずやってみて使い倒す」文化があるように思うのですが、それでも板澤さんは数理モデルなどの定着に苦労されたんですか?
板澤:やってみようというスタンスの人は、最初は誰より早く触るんですが、長続きしないことが多いんです。そこで気づいたのが、定着させる人も一緒のチームに入れるべきだということです。なので、定着させるのがうまい人を巻き込んで始めるという考えで新しいものを取り入れていきました。
押久保:デジタルは「まずやってみよう」に傾きすぎていると感じることもあります。確かな価値が生まれるまで何年もかかるものもありますし、数ヵ月や1年でやめてしまったらもったいないですよね。
板澤:デジタルマーケターにはやってみようタイプの人が集まりやすい傾向がある気がします。でも、実は定着させてコツコツ運用するタイプの人もなくてはならない存在なんですね。始めることだけでなく、定着や活用のことを考えてやらなければならないのは、デジタルの難しくも重要なポイントです。特にデータ活用を定着させるための工夫については、本書では「第8章 データを組織の共通言語とする」で解説しました。
感性を磨くために数字を参考にする
押久保:お話をうかがってきて、板澤さんの情熱をひしひしと感じます。改めて、板澤さんはマーケティングのどういったところが面白いと思われていますか?
板澤:デジタルに限りますが、やっぱり結果がすぐ数字で分かることですね。
押久保:デジタル時代ならではですよね。もしデジタルがなかったら、板澤さんもマーケティングの仕事をしていなかったかもしれないのでは?
板澤:本当にそうですね。
押久保:デジタル以前は広告宣伝も含めマーケティングに関わることは勘と経験と度胸でやってきた部分が非常に多かったと思います。マーケティングがデジタル化することで、本書で言う計数感覚やファクト志向を持っている人が活躍できる状況になってきていますよね。
板澤:たしかにそうなんですが、例えばクリエイティブや表現に関しては、「説明できない」こともあるという前提意識が重要だと思います。なぜこのクリエイティブがいいのか、なかなか説明できないですよね。効果を検証することで「いい」と判断することはできますが、それでもその理由は完全に説明することは難しいんです。
そんなとき、自分の感性を信じることが重要になります。でも、数値を重視する環境にいると、時に感性で話をすることが怖くなるんですよ。だから感性で判断できる人を見るとすごいと思いますね。
もちろん、「これはいいクリエイティブだ」と感じたとき、なんとなくいいというだけではダメで、持論や仮説を持てるかどうかなんです。例えば森岡毅さんはUSJのジェットコースターを後ろ向きに走らせてしまいましたが、これは森岡さんなりの感性に基づく仮説があってのことでしょう。数字は「後ろ向きに走らせる」ところまでは提案してくれません。
とはいえ、感性と数字、アート&サイエンスのバランスがとても大事です。数字に落とし込めるところは徹底して、そのうえで説明できない部分は感性で判断する。数字以外で語ることが怖くなる空気感があるときこそ、それがよい結果を生むかもしれません。そしてその感性を磨くために、仮説を持って試し、結果となる数字をきちんと捕捉するというプロセスが非常に重要です。
新しい可能性にチャレンジする
押久保:板澤さんの仕事や興味の領域はどんどん広がっていると感じます。そこまで新しいことに取り組もうとする理由は何ですか?
板澤:デジタルに可能性があるなら、それを実現しに行くのがマーケターの重要な仕事だと思っているからです。つまり、新しい可能性にチャレンジするということです。まずやってみるというスタンスですね。
僕はデータ解析のチームもゼロから立ち上げたんですが、デジタルマーケティングはそれなりのコストを使うので、効率化に責任があります。それに対してどれだけ真摯に向き合うかを考えれば、データ解析は絶対にやらなくてはいけません。その結果、広告宣伝だけでなく社内でデータを利用して最適化できる部分はすべて担当していくことになりました。
もちろん、僕は何でもかんでも専門家というわけではないので、データ解析のチームを作ったときは統計学を学びながら取り組みました。デジタルはチャレンジに大きなコストがかからないので、いかに本質的な部分でチャレンジするか、そういう姿勢を持てるかどうかがデジタルマーケターとしてのあり方に関わってくると思いますね。
押久保:本書でもチャレンジすることへの言及が印象的です。
板澤:本書は網羅的に書いているというよりは、僕が現場の経験を通して考えた重要なポイントをまとめたものなので、まずはここから自分の仕事に役立つエッセンスを取り入れてほしいと思っています。本書を新たなチャレンジのきっかけにしてもらえるのが一番嬉しいですね。