すべての中心は個人 リゾーム型の発想
一方で、「Individuals Centricの図」では、中心に個人がいる。こうなると、ヨーロッパ人は安心らしい。すべての個人が中心にいる。つまり、それは、全体としてみれば、誰も中心にいない。そのようなシステムの中で、少なくとも自分自身に関するデータについては、それぞれの個人が中心にいる。
結果的に、各個人も結節点(ノード)の一つとなって接続し、全体としては中心のないシステムが相互信頼で動作する。繰り返すが、全体を監視して管理・制御する特別な主体を中心に据える必要がないのだ。
そう、中心のないシステム、「リゾーム型」である。既にこの連載で触れているが、リゾームというモデルは、フランスの思想家、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが『千のプラトー ― 資本主義と分裂症』(河出書房新社,1994)で提示した概念だ。欧米の知識人は、パノプティコンと同様に、一般教養として、抑えている。つまり、「Individuals Centricの図」の背後には、リゾームという思想が流れているようだ。
トーマス・フリードマンが『フラット化する世界』(日本経済新聞社 2006)で論じたように、インターネットによって、世界は一見、フラットになった。
一部のマスメディアに情報発信機能が独占されていたピラミッド型の時代に比べれば、一般の個人が自由に意見を述べることができるようになった。そのこと自体、ヨーロッパ人も前向きに評価している。
だが、しかし、気がつけば、GoogleやFacebookなど一部の企業に個人情報を吸い上げられていた。マスメディア独占の時代、一部の人間が情報産業のピラミッドの頂点を牛耳った。それが崩れて、フラット化したのはよかったが、そのフラットな円の中心にいるのは自分たちではなくて、IT企業だった。
だから、ヨーロッパ人は、「MyData Vision」を掲げて戦う。その結果の一つが、今年5月25日施行のGDPR(General Data Protection Regulation:EU一般データ保護規則)だった。
電通はマスメディア全盛時代、その頂点に位置するテレビ・ラジオ・新聞などのメディア企業との関係を重視し、情報流通のピラミッドの頂点を抑えた。そして、広告業界の独占的地位を確立した。インターネット時代になり、フラット化した世界の中心で独占的な地位を築いたのは、GoogleやFacebookなどIT企業になった。
マス広告市場とネット広告市場の規模が拮抗しつつある今、電通・博報堂など伝統的な総合代理店は巻き返しに必死である。だが、「仕事は自ら『創る』べきで、与えられるべきでない」「仕事とは、先手先手と働き掛けて行くことで、受け身でやるものではない」。この電通「鬼十則」にあるとおり、GoogleやFacebookなどの他人が創った広告モデルで、その販売や運用コンサルティングに甘んじるしかない。先手を取ることができず、受け身になってしまう。
第6則は「周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地の開きができる」。他人が創った広告モデルで勝負しても、GoogleやFacebookとの間に、「天地の開き」ができてしまう。