認識することが情報でありデータとなる
Googleのミッションは、「世界中の情報を整理し、世界中の人がアクセスできて使えるようにすること」である。この有名なミッションを最初に聞いたとき私は、その本当の意味がとても気になった。
なぜなら、「世界中の情報」とは、夢の中の情報をも含んでいるのだろうか?と思ったからだ。さらに、幽体離脱しているときの情報まで考慮してくれるのだろうか?と。
Googleが整理する世界中の情報とは、脳が認識した情報のはずだ。脳が認識できること、あるいは、五感が感知できることは、人間にとって現実として存在できる。
いや、正しく言えば、Googleはセンサーなら認識できるが人間の五感では感知できないことまでも、データとして処理して情報として整理してくれる。そういう意味では、人間にとっては現実ではないことでも、Googleは感知して処理し、現実に存在するものとして、情報化してしまう。
そのGoogleの情報化のプロセスの結果、人間でも把握できるように加工してしまえば、それは人間にとっても存在する現実になる。つまり、結果的に、人間の脳が認識できる現実を、与えてくれる訳だ。Googleは人間の代わりに人間の能力を超越して現実を感知し、それを人間に提示する。人間の能力では気づかない、新たな実存を創作する。
脳が認識することだけが、情報でありデータである。脳が認識しないものは、人間にとっては現実には存在していないのと同じだ。現実の存在、実存とは、人間の認識能力が限界を定めている。何を認識し、何を認識できないか。そして、その認識した情報を自由に制御できるかどうか。これは、「個人の主権」の外延を規定し、そして、自由に生きていく権利の限界に挑戦する。
自分の知らないところで、認識していないモノ・コトを、誰かが勝手に使用し搾取し強奪しても、知らないことは問題にならないし、自由に生きていく権利を阻害することもない。だから、自分の尊厳が失われたという感覚もない。不謹慎だが、バレない浮気は問題にならない。存在しないのと同じだからだ。

19世紀のイギリスの政治哲学者でリバタリアンのジョン・スチュアート・ミルは、その代表作『自由論』で、「個人の主権」と「自由」について、個人の自律性と主体性という観点から論じた。
「注意すべきは、この個人はどんな人にも当てはまる意味での個人という一般的な使い方をミルはしていないということです。ミルが個人という名詞を使うとき、それは充分に成熟した自立した個人を指しています。ミルが『自由論』で使う「個人」とは自律性と主体性を持った個人のことであり、したがっていつも individuality with sovereignなのです。この sovereignとは主体性とか統治という意味です。また、 sovereignは君主、国王、主権という意味をも持っています。
<中略>
ミルが使う場合の主権(sovereign)は政治的な意味ばかりではありません。多くの場合、私たち一人ひとりにも自分の思想、倫理、行動について主権があるという意味でミルは使っているのです。それに withがついている個人( individuality)だから、世間の風潮に流されるような人のことではなく、自分自身を充分に統治している人格であり、いわば自分なりの思想、生き方を持っていて、それを実行している人のことを指しています。」
(出典:『世界の哲学者に学ぶ人生の教室』)
「individuality with sovereign」とは、私の意訳では「主権、つまり自律性・主体性をもった個人の在り方」という感じだ。
現実の世界で、「個人の主権」感覚を喪失し、自分の現実を外的な力で暴力的に制御されてしまったとき、その個人の世界から自律性と主体性とが剥奪される。そのとき人は、離人感・現実感消失症に陥るのではないか。
夢か現実かわからない状態は、コントロール感覚を喪失し、不安になる。いつの間にか自分の意思に関係なく幽体離脱してフワフワと世界をさまよっている。それが現実だとしたら、不気味だ。