スポーツはナショナリズムの受け入れを促す
ナショナリズムの問題は複雑で、日本では一般的にはアレルギー反応が強い。「日の丸」の国旗掲揚と「国歌」斉唱問題で、東京都と教師との間で争いが起きたことは記憶に新しい。
筆者はこの問題は単純なことだと考えている。「国歌を歌いたくない」のは個人の問題である以上強制はできない。が、公的な教育機関となると話は別だ。国歌を歌わないのであれば、公的な機関の仕事に就かなければいいのである。つまり、東京都の立場を支持する。
個人の情緒的な問題、「日の丸」と「君が代」に対するアレルギーは、スポーツの場ではいとも簡単に解決している。代表戦の前に流れる「君が代」を歌う若者たちの多くは、学校での「君が代」を嫌う人たちではないだろうか? この矛盾する二重構造に、スポーツの不思議なパワー、魔力を見ることができる。
結論。「人はスポーツの場では、もっとも自然にナショナリズムを受け入れる」のである。

この点にもっとも早く気づいたのは、ヒトラーの第三帝国の宣伝相ゲッペルスであった。渋る総統(注1)を説得して「ベルリン五輪」の開催にこぎつける。第1次世界大戦の敗戦で落ち込んでいたドイツ国民を鼓舞し、プライドを取り戻させたのである。
ベルリン五輪は、ドイツ国民の優秀さを内外に証明する大会として、周到な準備がなされた。聖火リレーはこの大会で始まったのだが、これもナチスの宣伝の一環である。そして「競技の勝利」を「民族と国家の優越性の証明」と考えていたナチは、五輪に先立つ数年間、相当な予算を割いてメダル獲得のために運動能力に秀でた人材の発掘を国家的規模で行った(無論、この行為は今やめずらしくもない光景である)。
結果として、33個の金、26個の銀、30個の銅メダルを獲得し、国家的な行為の有効性を実証した。事後に封切られたリーフェンシュタール監督の記録映画の題名は、「スポーツの祭典」ではなく「民族の祭典」であった。
注1
ヒトラーはその著「わが闘争」の中で、スポーツにも言及し、「健康な肉体の養成」が国家形成の必須事項であると述べている。そして「兵役義務の予備教育」として「スポーツ教育の義務化」を主張している。が、実は余りスポーツに興味がなかったといわれている。
1933年IOCがナチス政府に「民族的。政治的な性格を有してはならない」として「ユダヤ人選手を阻害しない」よう勧告したが、ヒトラーはこれに激怒して開催辞退を主張した。が、ゲッペルスになだめられて思いとどまった。
勧告から3週間後にドイツはウィーンで行われたIOC総会で「勧告受け入れ声明」を出し、「ベルリン五輪においてドイツ代表からユダヤ人を排除しない」と確約した。ところがヒトラー自身はこの声明を知らなかった。
したがって、開催前年の1935年に、ニュルンベルク人種諸法と呼ばれるユダヤ人を差別する法律が成立している。不思議なことに、今度はIOCがこれを問題にしなかった。当然ながら、アメリカを中心にベルリン大会へのボイコット運動が起こった。
アメリカでは結局「出場の承諾はナチ政権を承認したものではない」という声明を出して、代表団の規模を縮小したのみであった。もっとも親ナチの関係者が居なかったわけではない。後のIOC会長となったアベリーブランデージはナチスドイツ賛成を表明している。
余談であるが、後にワシントンのドイツ大使館の新築を受託したのはブランデージの建設会社であった。またボイコットの中心人物であったドイツ系アメリカ人のヤーンケはベルリン大会で開催されたIOC委員を除名され、後任にブランデージが指名された。
ゲッベルスの手帳には「オリンピック以降、我々は凶暴になる」と記されている。そして事態がそのように推移したことを我々は確認している。
