還元主義の罠
ワン・トゥ・ワン・マーケティングが一時期、大きな注目を集めたにもかかわらず、 大きくブレイクするまでには至らなかった背景には、こうした人と人とのつながり、口コミの効果を軽視してしまったことが大きな要因となっているのではないかと思います。
マスマーケティングのもつ口コミ効果を考慮しなかったために、本来、マスマーケティングとは異なる有効範囲がきちんと理解されることなく、そのプロセスだけが非常に形式的に濫用 しまいました。そのため思うように結果が出せずに幻滅されてしまったということではなかったかと想像します。ようするに、それはワン・トゥ・ワン・マーケティングがダメだったのではなく、ワン・トゥ・ワン・マーケティングへの理解が不足していたために、本来の有効な範囲で使われることがなかったと考えるべきなのではないかと思うのです。
これはある意味で20世紀の科学が陥ったのと同じ還元主義の罠だといえそうです。はじめにすこし触れましたが、物理学者や生物学者は、物質や生命を最小要素に還元できれば物理や生命に関する自然の法則の謎をつきとめられると考え、20世紀には原子や原子核、中性子や電子、遺伝子やDNA、RNAなどの発見にいたりました。こうした複雑な自然が織り成す法則性の原因を個々の要素に還元しようという方法論は、文字通り還元主義と呼ばれています。
しかし、科学者たちは20世紀をかけてさんざん宇宙をバラバラに分解したあげく、それをもう一度組み立てなおすことの困難さに気づかされました。いまでは、還元主義だけでは自然の法則のすべてを説明することがむずかしいということは多くの科学者の間で合意されているようです。
1998年にノーベル物理学賞を受賞したロバート・ラフリンによれば「物理学は、いま、還元主義から創発、すなわち、自己組織化の時代へと大きく変わろうとしている」と述べています。創発、自己組織化とは、蟻の集団や雪の結晶など、知能をもたないものの集団に自然と秩序が生じる現象を指します。 水が氷や水蒸気になるように、物質が固体、液体、気体と姿を変える相転移と呼ばれる物理現象も、現代の創発主義的物理学の分野においては、ミクロなレベルでは量子力学的な確率論的ふるまいをみせる原子や分子が、集団となった際にみせる組織的現象として捉えられています。
マスマーケティングからワン・トゥ・ワン・マーケティングへの流れは、顧客理解のためのセグメンテーションを大きな要素からより小さな要素へと推し進めた意味で還元主義を想起させます。しかし、バラバラにしてみたものの、それを再び組み立てなおす力はワン・トゥ・ワン・マーケティングにはありませんでした。
「なじみ深い巨視的な現象から未知の微視的な現象を正しく推し量ることはできない。現実を一皮めくれば、混沌が渦巻いているのである」
『ガリレオの指―現代科学を動かす10大理論』
ピーター アトキンス著
マクロな現象からミクロな現象を正しく推し量れないのと同様、その逆にミクロな現象からマクロな現象を演繹的に推論することもできません。個々の顧客を理解するミクロな視点は、それだけでは市場に大きなうねりを起こすようなマクロな現象へとつなげるのはむずかしいのかもしれません。ある意味ではセグメンテーションを極度に推し進めた形のワン・トゥ・ワン・マーケティングは、非常に多くの構成要素をもつ集団が示す組織的な創発現象を無視してしまっているがために、すくなくともマスマーケティングの代役としては不十分だったのでしょう。
