コンテンツもマーケティングも、啓蒙から共感の時代へ
廣澤:丸山さんがNHKへ入局された1980年代から現在まで、メディア環境には様々な変化が起こったと思います。まず、番組を制作する上で変わったと感じることを教えてください。
丸山:「啓蒙から共感の時代」に移っていったのが大きな変化ですね。ネットがない時代、多くの情報を持つテレビ局がその組織内で情報を取捨選択し、ある種の答えを発信する番組の作り方には多少なりとも啓蒙的な要素があったと思うんです。言い換えれば、情報を咀嚼し整理して発信するような役割を持っていたとも言えるのかもしれません。しかし、特に2000年以降ネット環境が広がるにともない、メディアが一方的に「正解」を流布するかの如き図式は崩れ、皆さんと共感とともに問いを共有する形へと変化したように思います。
私が開発した『欲望の資本主義』という番組は、ある意味、そのひとつの象徴かもしれません。「現代の資本主義はどこへいくのか。」正解など、誰も持っていませんよね。しかし、メディアとして問題の切り口を考え、様々な概念の再定義を試みながら、どんな問いを立てるかが大事だと考え、このような番組を企画しました。私自身、走りながら考え、不透明な現代への認識を多くの方と共有することを第一に、フラットなコンテンツ作りを心掛けてきました。
廣澤:「啓蒙から共感へ」という変化は、マーケティングの世界でも昨今よく言われることですね。広告に関しても、1つのクリエイティブやメッセージをマスに乗せることで世の中の認識をガラッと変えられる時代がありましたが、最近ではそれも難しくなったのではないかと感じます。その背景にあるのは、生活者が共感するコンテクストが細分化しているからだと感じるのですが、丸山さんはどのように考えていますか?
丸山:確かに、昔は企業をはじめとした大きな組織が作るコンテクスト、時代の文脈にみんなが乗っかっていたのかもしれませんね。しかし今は、多様な価値観があり、ともすれば、価値観の合う人同士でしかコミュニケーションをしなくなっています。社会学者の宮台真司さんの言葉を借りれば、「島宇宙」化ですね。
私は公共放送に携わる者として、島宇宙化しているからこそのコンテンツ、たとえば日本について再考、対話をするための場作り、番組作りは、いつも心掛けたいと考えています。公共の定義を捉え直して、バージョンアップしなくてはいけませんし、そこにチャレンジするようにしたいと、いつも考えています。
視聴者目線で開かれた問いを立てる
廣澤:公共の定義をバージョンアップする、ですか。公共という言葉は非常に多義的です。制度的な意味もあれば、認識としての公共もありますね。お話を聞いていて思うのは、以前は公共の中で共有している認識や感覚が、常識や世論という形で大きくまとまっていたのかもしれません。そして、人はそうしたまとまりに対して何かしらの尺度を持って考えたがるものです。たとえば標準世帯といった尺度。ライフスタイルや社会の制度・仕組みも、そういった粒度の荒い尺度を基準としていた時代があったということでしょうか。
丸山:今では家族のあり方も多様化し、公共を具体化する時の問題設定が標準世帯の家族構成のような尺度からは成り立ちませんよね。すると、公共空間の作り方も変わるのかもしれません。たとえば、税金を何に活用するべきかという意見も人それぞれ、どんどん細分化しがちです。
テレビもそうした時代の変化を捉え「一緒に公共について話し合いましょう」「一緒に語り合える方法を模索しましょう」という提案とともに、そもそも社会の問題設定の意味するところを更新することも大事な使命になってきている気がしています。
廣澤:「一緒に公共について話し合おう、語る上での共通項を探そう」ということは、番組を制作する側と視聴者の目線や距離感が近づいているのでしょうか。
丸山:そうとも言えますが、さらに言えば今の時代は番組を「完結したもの」として出すことのほうが、不誠実かもしれないという感覚もあるんです。つまり、制作者と視聴者が互いに向き合っているというよりは、同じ映像や現象を共有しながら番組を通して対話しているという感覚が、ここ最近は強いんです。たとえば『人間ってナンだ?超AI入門』のような講座的なジャンルに分類されるものでも、最低限の台本はありますが、出演者の方には本当にその場で起きる現象を純粋な気持ちで体験してもらう、ドキュメンタリーに近い感覚で制作しています。
制作側が妙に頑張って視聴者像を想定するのではなく、「どこにも正解がない時代を一緒に生きているのだから、作り手も誠実に考えますので、どうぞ皆さんも一緒に考えませんか?」と呼びかけをするイメージです。常に開いた問いと開かれた対話があるというのが、コンテンツ作りにおいては一番重要だと思います。