宮坂氏の真骨頂はロジカルシンキングの強さ
そうやって、それぞれの立場の正論を揺さぶっておいて、「そもそも、このプロジェクトのスコープってどこまででしたっけ?」という問いを発するのだ。「我々は果たして、どこまで視野に入れるべきなのか?」と。大きすぎてもダメだし、細部を怠ってもダメだ。
どの順番で議論が進むかはケース・バイ・ケースだが、パンセ的なスコープの揺さぶりは、結果的に、プロジェクトの目的を炙り出す、あるいは、目的に立ち戻ることになる。目的によっては、確かに、宇宙から眺める必要があるだろうが、そんなに遠くから見ていたら、我々のプロジェクトは小さすぎで意味をなさない。だから、適切な距離から俯瞰することになる。この適切な距離を決めるが、目的なのだ。
目的次第で、現場の視点だけでコンバージョン数を見ていればいい場合もあれば、もっと業界全体の視点でクライアントやパートナー、ユーザーの視点も取り込むべき時もある。
そして宮坂氏は、「有園さんの言っていることって、大きく3つぐらいに分類できると思って良いですか?」というタイプの確認を入れる。すると、私も「分解すると、3つぐらいの要素に分かれるよね」みたいに、宮坂氏の議論の流れに乗っかることになる。目的を中心に据えて、あるいは、「root cause」(根本的原因)を導出するために、具体・抽象に関わらず適切にロジカルに分解していく。
この辺から、宮坂コンサルティングの真骨頂が発揮される。彼以上に、ロジカルに考えられる人を見たことがない。Googleや電通・博報堂にも、ロジカルシンキングが強い人はたくさんいるのだが、私が付き合った中では、宮坂氏が日本一だ。しかも即興的にやっているから、スゴイのだ。いつも、美しいと思っていた。
つまり、いわゆるデカルトの二元論(あるいは、還元論)的手法だ。ロジカルシンキングの教科書的にいえば、「MECE(ミーシー、あるいは、ミッシー):Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive」と言ったほうがわかりやすいかもしれない。
宮坂氏は、論理が結局は人間の精神を礎にしていること、そして、その対立概念でモノや肉体が存在すること。この区別を理解していて、論理だけではなくその裏にある人間の精神や感情(抽象的コンセプト)とツールやモノ、肉体に関連する領域(具体的事象)の区別を明確にしながら、分解する本能をもっていた。
「我思う、ゆえに我あり」で有名なルネ・デカルトの『方法序説』で、ロジカルシンキングの真髄が語られている。
「人間の巧知がいかに多種多様のオートマットつまり自動機械を作りうるかを知る人たちには、少しも奇異には映らないだろう。この人たちは、各動物の体内には骨、筋肉、神経、動脈、静脈、その他あらゆる部分が無数にあり、それに比べれば実にわずかの部品しか使わずに、人間の巧知がどれほど多種多様のオートマットを作りうるかを知って、この人体を、神の手によって作られ、人間が発明できるどんな機械よりも、比類なく整えられ、みごとな運動を自らなしうる一つの機械とみなすであろう。」
『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
そして、こう続く。
「われわれの持つような感情と欲求を持ち、そうして真の人間を構成するためには、理性的魂が身体と結合し、より緊密に一体となる必要があることも示した。」
『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
デカルトの『方法序説』は、学生時代に読んだのだが、その前半は、史上最高に退屈な内容だった。ありとあらゆる概念や事象を、ただひたすらに、分解していく。それは読み物としてはつまらないのだ。
だがしかし、もうこれ以上分解できない地点に到達して、デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と発する。ここに、MECEの限界がある。ここに、ロジカルシンキングの限界がある。これ以上、ロジカルに分けられない。自分の「われ」という存在をこれ以上、分けることができない、とデカルトは驚愕する。メタフィジカルな意味での、肉体を超えた意味での「われ」をこれ以上、分解できないということだ。
そして、その「われ」は、骨、筋肉、神経、動脈、静脈と分解したところで、真の人間を構成するためには、理性的魂と身体が結合し、一体として捉えなければ、何の意味もなさない。
一方、「ただ分解しただけでは何の意味もなさない」ということを、宮坂氏は理解していた。つまり、宮坂氏のロジカルシンキングが素晴らしかったのは、ただ機械的に分解するだけではなくて、相手の精神・心・「われ」に配慮しながら、どんなに異なる立場の相手でも、どんなに異なる思想の持ち主でも、それぞれのポジションを把握して、その「われ」あるいは自尊心を傷つけるこのないように配慮しながら、巧みに議論を展開できたことである。もちろん、目的を踏み外すことなく、あるいは、「root cause」を明確にしながら、宮坂氏のコンサルティングは流動的に、我々の頭の中を整理していった。
正論を吐いたところで、人は動かない。目的のない議論は時間の無駄である。そういうことを、多角的な視点を、宮坂氏はいつも理解していた。
