ストリーミングサービスの登場で変わった再生回数の増やし方
江端:現在の「推し文化」を考えるとデジタル上でエンゲージメントをつくるやり方は合っていますよね。
梶:一昔前は、1万枚のCDを売るなら1万人に買って聴いてもらうのが理想的でした。しかし現在主流となったストリーミングでは、聴くために買う人の数ではなく再生の総数が収益面でも評価面でも基準になっている。そのため、1万人に1回ずつ聴いてもらっても良いし、100人に100回聴いてもらっても良い。むしろ今は、100回聴いてくれる熱いファンを作る方が正解に近いでしょう。仮にそんなファンが1万人になったら100万再生となるからです。ただしコアなファンを作るやり方が主流となると、昔のように「誰もが知っているヒット曲」は生まれづらいと考えた方が良いかもしれません。

江端:確かに最近は、あらゆる年代層の人が知るヒット曲が少なくなっていますね。このような変化の中で、顧客コミュニケーションで意識すべき点は何かありますか。
梶:プロモーション施策を届ける先に「熱くなってくれる人」がいるかを見極めてからチャネル選びやコミュニケーションを行う必要があると考えています。それができていない場合、“ユーザーに刺さらない”いわゆる“間違ったコミュニケーション”となる恐れがあります。
たとえば、現在の新聞の紙面はデジタルの受容度が低い方が読者に多いと感じています。そのため、CDの広告に興味を示したとしても、サブスクサービスの広告には興味は示してくれない可能性が高い。ただ、宇多田のように長いキャリアのアーティストの場合、ファン層がデジタルの許容度が低い層から高い層まで幅広くなります。こういった理由から、デジタルばかりでプッシュするのではなく、チャネル選定のバランスをとりながら戦略を作ることは意識していますね。
視聴者目線で興味を持たれるプロモーション設計
江端:2024年の4月から放映されている伊藤忠商事のテレビCMでは宇多田さんの新曲「Electricity」が、日本コカ・コーラ「綾鷹」のテレビCMでは「traveling(Re-Recording)」が起用されました。宇多田さんのチームが企業コラボを行う際に注意している点を教えてください。
梶:コラボでプロモーションを行う際は、クライアント企業から訴求したいメッセージやコンセプトをうかがうようにしています。その上で、彼女の楽曲がそのメッセージに寄り添えるかといった点や、CM内で楽曲が埋もれてしまわないかかどうかを見極めた上で、ご一緒するかを決めています。
そのため、基本的には、タイアップの内容と宇多田ヒカルの世界観が合わないもの、短い時間の中で音楽にナレーションがずっと被ってしまうCMは一切行わない方針です。
伊藤忠商事さんのCMで使われている新曲「Electricity」には、宇宙人二人が地球で出会う話が描かれています。宇多田の作品は、一つのテーマや結論で書かれていない。彼女のパーソナルな本音が込められていながら、様々な人を主語にできる。そのため、今回の映像にある国や時代を越えた人の営み、CMのメッセージ「『おかげさまで』が地球を回す力になればいいのに。」にも通じています。多くの人に寄り添えるのは彼女の楽曲に深さがあるからですね。
梶:また、昔はとにかく広告を使って大量にプッシュしていけば、いつかお客様に好きになってもらえるというアプローチが多かったと思います。しかし、今のユーザーはそのやり方だとむしろ引いてしまいます。大事なのは、宇多田の楽曲と映像にまず興味を持ってもらい、それが実はCMだったというストーリー構成。こうすることで、視聴者の方々になるべく自然に受け入れられるようにすることですね。
