教育がオープン化したとき、学校の役割とは
有園:すると、ある意味で市場が開放されたなら、我々マーケティング領域の人間からは“トランスペアレント(透明性)”そして“フェアネス(公平さ)”を問いたくなってしまいます。各コードに対応したコンテンツの品質がわからないと、まず文科省がそれを教材として認めていいかがわからないですよね。
また、各教材の評価もオープンになるなら、口コミじゃないですが、当然人気のある教材なり先生なりが出てきます。いわゆるスーパー教師も出てきそうです。そのとき、従来の学校の役割はどうなると思いますか?
吉田:塾が参入したりもするでしょうから、人気の偏りは出ますよね。その場合の、皆が教室に集まる学校教育は、ティーチングから、よりコーチングの役割を先生が担うようになるのではと思います。ティーチングももちろん必要ですが、比重が少し移っていくのでは。
有園:なるほど。それはまさに、リアルな場での個別最適な教育になるわけですね。市場がオープンになって教材が増えれば選択に迷う子も出るでしょうから、一人ひとりに並走して、アドバイスしていく、と。
あとは、体育だったり文化祭などの行事を皆で行うことで、集団生活や社会性を学ぶ、などでしょうか。
吉田:それはもちろんありますね。端末の一人1台環境が実現すると、それを家で使えば登校が不要になるという見方もありますが、ではこれまで学校が担ってきた、単元の学習以外のことをどこで担保するかは大きなテーマです。今の我々の考えでは、ご指摘の集団生活や社会性、友達付き合いを学ぶ場として、リアルな場は必要だと思っています。皆が集う場での気づきが生徒の心身の発達に働きかける、教室の力は、今後デジタルが進んでも減らないと思います。

答えのない問いに大胆に取り組める思考回路を育てる
有園:ちょっと飛躍しますが、私が大卒後に米国に留学した際、優秀な若手人材に接して「米国は完全に宗教国家なのだな」と感じたんです。要するに、常に神様が見ているという自律意識があり、特にユダヤ教の人は「世界は本来どうあるべきか」「それに向かって変えていこう」という社会課題に向き合う意志がとても強い印象がありました。
一方で、GoogleなりAppleなりの創業メンバーを思い浮かべると、ラディカルな課題解決の仕方ができる。もちろんそういう人ばかりではないですが、自律意識にラディカルが組み合わさると、日本人は太刀打ちできるのかな、と。どう思われますか?
吉田:米国におけるバイブルのような指針が日本にはないというご指摘は、確かにそうですね。それは何かで補完するとして、ともかく自身の価値基準をきちんと持った人に育つようフォローすべきだという意見には賛成です。もうひとつのラディカルな課題解決の仕方は、手段としてこれから追いつける、のびしろがある部分だと思います。答えのない問いに大胆に取り組む思考の運用が、これからますます大事にもなるでしょう。
有園:最後に、MarkeZine読者でもあるITベンダーやエドテック領域のスタートアップ企業の方たちに向けて、メッセージをいただけますか?
吉田:前述のように単元がアンバンドルされれば、対応するコンテンツは無限に考えられます。アプリなどを含め、教育コンテンツに携わる民間企業には追い風になると思いますし、期待もしています。我々も、今の取り組みが唯一の正解だとは思っていないので、ぜひ立場の異なる方々と今後の可能性を議論して、次なる方向性の示唆が得られればありがたいです。