※本記事は、2021年8月25日刊行の定期誌『MarkeZine』68号に掲載したものです。
“初めて”ばかりだったナイキ時代
久保田 夏彦(Natsuhiko Kubota)氏
1970年生まれ。大学卒業後、オージス総研に入社。1996年にナイキジャパンへ転職し、Nike.jpやNIKEiDの立ち上げ、ナイキ原宿のオープンなど、様々なプロジェクトに貢献。2016年からは、アダストリアでマーケティングの統括やDX推進に関わり、2019年に独立。一般社団法人渋谷未来デザインを中心に、企業のマーケティング支援に関わっている。
──はじめに、これまでのキャリアを教えてください。
新卒で入社したSIerのオージス総研を経て、1996年にナイキジャパンに転職しました。前職ではプログラマだったため、ナイキではまずシステム部に配属され、アプリ開発やデータ整備に携わっていました。そんなとき、Nike.jpを立ち上げる話があり、責任者の社内公募に手を挙げたんです。そこから、マーケターのキャリアが始まりました。その後は、NIKEiDやECサイトNIKE.COMの立ち上げなどのデジタル施策だけに留まらず、店舗運営やインフルエンサーマーケティングなど、20年間ナイキの様々なプロジェクトに関わってきました。
2016年にはアダストリアへ転職し、2019年に独立。今は一般社団法人渋谷未来デザインのプロジェクトで、多様な会社や人たちとコラボレーションしながら、渋谷の街の課題を解決する仕事をしています。具体的には、渋谷区公認のEC「シブヤ・ファミリーセール」や、渋谷のスマートシティ実現に向けたデータコンソーシアム事務局の運営を手がけているところです。他にも、複数の企業のマーケティング支援を行っています。
──Nike.jpがスタートした2000年前後は、デジタルを取り巻く環境が大きく変わる渦中でした。
ナイキジャパンは、日本の中でも先進的にデジタル施策を進めていた企業でしたね。アメリカでスタートしたNIKEiDも、世界で2番目に導入しました。それでも当時は、デジタル領域に割く予算の確保が難しかったことを覚えています。「デジタルがきそうだぞ?」という気配をみんな感じているのですが、マーケティングの仕事といえばCMや広告を作ることが仕事で、デジタルは「若い奴らが集まってガチャガチャやってる」というくらいの扱いでした。だから、最初の予算は少なかったですよ。デジタルの施策がブランドにとってどんな意味や価値があるのか、誰もわかっていない中で、その重要性をプレゼンしていかなければならない時代でした。
組織もハッキリと固まっておらず、海外のナイキのホームページ担当者たちも、情報システムやマーケティング、直営店の部署とバラバラに所属しており、ようやくマーケティング部に落ち着いた経緯があります。僕自身も、マーケティングや広告の仕事をするとはまったく考えておらず、興味もなかったのですが、そんな成り行きでマーケターになりました。マーケティングの体系的な知識がない中、助けてくれたのはテクノロジーの理解と知識でした。僕が「kubotech(クボテック)」と呼ばれているように、テクノロジーを知っていたことが、マーケターとしてのキャリアを支えてくれたと思います。
とはいえ、とにかく現場に立ちながら勉強をし続ける日々でしたね。特に、東京のマーケティング担当時代に関わったナイキ原宿は、初めてのオフライン施策でした。海外の主要都市にはナイキタウンと呼ばれるようなエリアがあるくらいなのに、なぜか東京にはない。ブランドのエクスペリエンスを届けるフラッグシップこそ、東京に作るべきでしょうと計画が始まりました。
大きなウィンドウから店内が見えるデザインを内装でどう活かすか? など、店舗運営から商品開発まで、仕事をしながら学んでいきました。当時は、ナイキのブランドの勢いが落ちていたこともあって、ナイキ原宿からゲームチェンジを図ろうと、オープニングキャンペーンにも注力しましたね。ECの立ち上げもNikeRunClubなどのコミュニティ作りも、実際に手を動かしながら。中でも一番印象に残っている仕事は、渋谷区と一緒に進めた宮下公園のプロジェクトです。