苦情は見られている証
その1:クリエイティブで与える衝撃
きぬた歯科の看板に含まれるメッセージは実にシンプルだ。「きぬた歯科」「インプラント」「西八王子駅前」の三つを基本としている。配色は目立たせることを意識したピンク・青・黄色で統一。極めつけは先生の顔出しだ。

幹線道路沿いや高速道路沿いに設置されることが多いきぬた歯科の看板は、人が移動しながら目視するため、多くのメッセージを受け取ってもらうことは難しい。この点を踏まえ、必要最低限のメッセージを届けるためにシンプルな構成となっている。結果的に他の看板と一線を画すクリエイティブに仕上がり、視界に入りやすいのだ。
「せっかく看板広告を出稿するなら」と情報を詰め込みたくなる気持ちはわかるが、記憶に残っている看板を改めて振り返ると、得てして真逆のクリエイティブであることが多い。看板広告に載せるメッセージは極限まで削ぎ落すことが重要だ。
きぬた先生は、インプラントのビフォーアフターがわかる口腔写真を使った看板(前述)を出して以降、苦情を恐れなくなったという。「苦情はむしろ見られている証」と考え、クリエイティブの良し悪しを判断するバロメーターの一つとしてポジティブに捉えている。
その2:数で与える衝撃
きぬた歯科の看板広告は単独で設置されることが少なく、特定のエリアで集中的に設置される。これにも意図があった。狭い範囲で連続して出現することにより「また、きぬた歯科?」と衝撃を与える狙いだ。小が大を覆すことができるのは、局地戦で戦力を集中させたときと相場が決まっている。いわゆるランチェスター戦略に近い手法をきぬた歯科では採用しているのだ。遠隔地でまばらに設置される看板広告より、局地で集中的に設置された看板広告のほうが印象に残るのは間違いないだろう。
その3:配置で与える衝撃
きぬた歯科の看板広告は八王子近郊に限らず、首都高速やきぬた先生の故郷・足利市にも設置されている。最も離れた設置場所は、全国から人が参拝に訪れる伊勢神宮へ向かう公道だ。しかも驚くべきことに、地元の超優良企業である赤福の看板の真下である。

店舗との関係性が薄い場所へ看板を設置する理由は、「なぜ西八王子の歯科医院がここに看板広告を出稿するのか?」という意外性が話題を生むからだ。SNS上でのUGCのみならず、友人同士の話題などでも多く取り上げられることだろう。
三つの衝撃からわかるとおり、きぬた歯科が実行する施策の一つひとつには全て意味があり、巧妙に戦略が練られている。その蓄積が、前述した売上の推移に反映されていると言っても過言ではない。
人は知らないものを選べない
マーケティングというものは、実に難解である。私は20年近くこの業界に携わっているが、未だに「こうやれば絶対に上手くいく」という確信めいたものを見つけられていない。
一方で、わかっていることもある。「人は知らないものを選べない」「人は覚えていないものを選べない」という事実だ。すなわち知ってもらうことが重要であり、時が来て思い出してもらうことはさらに重要だと言える。人から知ってもらう/覚えてもらうにあたり、きぬた歯科の看板はたいへん有効に機能しているだろう。
インプラントという事業の特性上、たとえインパクトがあってもきぬた歯科の看板を見て即座に予約を取り、来院する人はそこまで多くないはずだ。ただし、自分自身が歯に何らかの問題を抱え、インプラントという選択肢が少しでも頭をよぎるとき、第一想起される歯科医院はどこだろう。馴染みの歯科医院? それともきぬた歯科? 答えは皆さんが身を置く環境によって異なるはずだ。3ヵ月ごとに歯の定期検診を行っている人は、馴染みの歯科医院が頭に浮かぶかもしれない。引っ越したばかりの人や、歯科医院を頻繁に訪れることのない人の選択肢として、きぬた歯科が入り込む可能性もあるだろう。
我々が消費者の意思決定を操作することはできない。いつ行動を起こすかわからない消費者と何らかのつながりを確保し、意思決定時の最初の選択肢に入ることを目指すのみだ。消費者が常に最終的な意思決定のレバーを握っている。マーケターはこのことを忘れないようにしたい。