「量」を追うマーケティングの限界。顧客理解の本質
現代のBtoBマーケティングにおいて、リード獲得の「量」を追う施策のみだと限界がある。顧客理解の解像度が低い状態で量を追い求めた結果、商談化率の低下などにより営業現場との分断を招き、最終的に企業の売上成長が停滞するケースが後を絶たない。
入江氏は、こうした現状に対して次のように問題提起を行う。
「BtoBマーケティング部門の役割は、集客施策を実施したり商談をつくる前捌きを行ったりすることだけではありません。リードの獲得、育成、選定から、商談・受注、契約後のサポートに至るプロセス全体をいかに統合し、統括していくかが本質的な役割です」(入江氏)
この統合を阻む最大の要因が「浅い顧客理解」であると入江氏は指摘する。顧客理解とは、「41歳、部課長、情報収集はスマホ、趣味はゴルフ」といった単なる個人のプロフィールやペルソナ設定ではない。
BtoBマーケティング活動において重要なのは、その人物が組織の中でどのようなミッションやKPIを課せられているかを捉えることだ。
たとえば、経費精算システムの導入であれば、「月末に経費精算の催促メールを50通手動で送る業務を改善しようとしている人」といった、業務上のリアルな役割の理解が不可欠となる。
BtoBの購買プロセスでは、単一の個人が購買を意思決定することはない。次のように、立場も評価指標も異なる複数の人間が関与する。
- 現場ユーザー:日常業務での効率化や使い勝手を重視する「商品を使う人」
- 中間管理職:部門の目標達成やコストパフォーマンスを重視する「商品を選定する人」
- 経営・決裁層:全社的なROI(投資対効果)や経営課題への寄与を重視し、意思決定をする「お金を払う人」
顧客理解に基づく深いマーケティングの成功シナリオとは、立場ごとに異なるインサイト(本音や評価指標)を理解して先回りして施策を統括することにある。
一方で、顧客理解が浅い状態でマーケティングを行うと、獲得したリードが多すぎて営業部門が捌ききれない、あるいは思うように商談が進まないといった事態を招き、最悪の場合はマーケティング部門と営業部門の組織が分断され、機能不全に陥るリスクすら孕んでいるのだ。顧客理解を深めることは、マーケティング施策の改善にとどまらず、組織全体の連携を保つための生命線と言える。
組織の分断を防ぐ顧客理解の基盤づくり
組織の分断を防ぎ、購買プロセス全体を動かすために近年注目を集めているのが「RevOps(レブオプス:Revenue Operations)」という概念だ。これは、マーケティング、営業、カスタマーサクセスといった顧客接点部門を1つの機能に統合し、CRO(Chief Revenue Officer:最高収益責任者)という1人の責任者の下に置く組織変革のアプローチである。
入江氏は「組織の統合を進めることは極めて重要であるが、統合された組織を真に機能させるためには、多様な顧客群を理解し、一貫した顧客体験を生み出すための「基盤」の構築が不可欠だ」と語る。その基盤は、「データ」「顧客理解」「顧客体験」の3つのステップで構成される。
Step1の「データのオーガナイズ」では、部門やツールごとにそれぞれデータを管理するのではなく、顧客の意思決定構造に基づくデータ構造へと再編することが求められる。
Step2の「顧客理解のオーガナイズ」は、この基盤の要となる部分だ。顧客をバラバラに捉えるのではなく、未顧客の決裁者がどのような条件や視点でハンコを押すのかをあらかじめ解き明かし、そこから逆算して中間管理職や現場担当者が社内で通すべき上申プロセスをデザインすることが求められる。
Step3の「顧客体験のオーガナイズ」では、把握した意思決定構造に基づき、認知・検討・受注・活用といった各フェーズで決裁条件をクリアするための顧客体験を構築する。決裁者の視点を前提とした上で、各ステークホルダーのニーズに合わせて、例えば事例コンテンツ、ROI比較資料、提案書、オンボーディングマニュアルまで一貫性のある顧客体験として提供していくことが重要だ。
組織の統合と、この3つのステップからなる基盤を機能させることで、初めて顧客が社内でスムーズに稟議を通せる購買プロセスそのものをデザインすることが可能となる。
仮想空間でAI同士が議論する「CX AI STUDIO」のアプローチ
このように意思決定構造を踏まえた新しい顧客理解が必要であるものの、従来のアプローチには限界があった。既存顧客へのアンケートやトップセールスへのヒアリング、業界専門家への定性調査などからファクトを集めても、各々の情報はどうしても分断される。そのため、顧客理解はマーケターの仮説の域を出ないことが多いのが実情だ。
この属人的なアプローチから脱却すべく、博報堂が開発・提供しているソリューションが「CX AI STUDIO」である。これは、同社が長年培ってきた「人を理解しAIで再現する技術」を、BtoB領域へと応用・拡張させた仕組みだ。
博報堂は、「何を買ったのか」という行動データや購買データだけでなく、「なぜそうするのか」という生活者の価値観や環境意識、消費意識に関する意識深耕データを、数十年にわたり蓄積してきた。この豊富なデータと独自のプロンプト技術を組み合わせることで、単なる一般的な情報にとどまらない、心理的な迷いや葛藤、本音を持ったリアリティのある人間像をAI上に再現することができる。
「CX AI STUDIO」は、こうしたノウハウを活用し、多様なステークホルダーを独自データからAIで再現。これまでアクセスが難しかったステークホルダーまで解き明かし、仮想空間での議論を通じて深い顧客理解と一貫性のある顧客体験の創造までを支援するアプローチである。
「CX AI STUDIO」のワークフローでは、まずターゲット企業の決裁ルートの構造(誰が起案し、どこが壁となり、誰が最終決裁するのか)を特定し、最適な「バーチャルチーム」を仮想空間上に組成する。「バーチャル未顧客ユーザー」「バーチャル未顧客選定者」「バーチャル未顧客決裁者」といった顧客側のステークホルダーに加え、自社側の「バーチャルトップセールス」や「バーチャル業界専門家」を仮想空間に呼び出し、AI同士に自律的な議論を行わせるのが最大の特徴だ。
この仮想の議論空間で「バーチャルマーケター」が議論をファシリテート・分析することで、通常のインタビューでは引き出しにくい本音やインサイトを抽出し、顧客分析結果やマーケティング戦略、個別具体的な施策内容までを一貫したレポートとして出力することが可能となる。
汎用LLMと一線を画す「5つの独自データ基盤」
AIを活用した業務効率化が叫ばれる中、汎用的な大規模言語モデル(LLM)を利用するマーケターも増えている。しかし、入江氏は、「CX AI STUDIO」がこれらの汎用LLMとは異なるアプローチをとっている点を説明する。
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リアルさ(専門家の暗黙知)
汎用LLMが主にWeb上の公開情報を学習データとしているのに対し、「CX AI STUDIO」は各業界・業種への専門家調査がベースとなっており、膨大な「専門家の暗黙知」を取得・学習している。 -
奥深さ(異なる視点での議論)
単一のAIとのやり取りに留まらず、異なる視点を持つバーチャル顧客や社員同士が対話・議論する中で、課題の深掘りや新たな発見の導出を可能にしている。 -
手軽さ(ワンストップ出力)
汎用LLMで実務に活用できるレポートを出すには高度なプロンプト設計技術が求められるが、「CX AI STUDIO」は情報収集から仮説構築、見立てまでワンストップで完結し、体系的で高品質なレポートを出力できる。
「CX AI STUDIO」は、その裏側に特定の業務や意思決定に特化した独自データを内包している。基盤となるのが、以下の5つの独自データ群だ。
- プロフェッショナルの暗黙知データ:約1,000人の業界・業種専門家の思考プロセスを学習。
- 思考ツール:800以上の実務的・学術的なフレームワークを学習。
- 生活者データ:数十年継続した数千人対象の意識・行動データ。
- クライアント様の保有データ:購買情報をはじめとする自社独自の多様なデータ。
- マーケットデータ:インターネット上で確認可能な各種市場データ。
「異なる視点を持つバーチャル顧客やバーチャル社員同士が対話・議論を行うことで、課題の本当の原因や新たな発見を導き出す仕組みを取り入れています」(入江氏)
各業界の専門家への調査ベースでつくられた暗黙知を活用し、情報収集から仮説構築、レポート作成までをワンストップで完結する。そのため、個人のプロンプトスキルに依存せずとも、体系的で実務に即した再現性の高いアウトプットを生み出せる点が、「CX AI STUDIO」の特徴と言えるだろう。
業界別の壁を突破する意思決定のレポート
セッションの後半では、「CX AI STUDIO」を活用した具体的なユースケースが紹介された。なかでも注目を集めたのが、法人向けクラウド型人事労務ソフトの販売戦略において、決裁層のインサイトが不明瞭で十分な集客ができていない課題に対し、主要顧客業界の購買プロセスにおける顧客理解について説明したケースだ。
想定顧客である金融業界(地方銀行など)において、バーチャル上の現場ユーザーとの対話から浮き彫りになったのは、導入の第一の壁となるのが情報システム部門である点だ。「FISC(金融機関等コンピュータシステムの安全対策基準)」への対応や、既存のオンプレミス給与計算パッケージとの連携実績、国内データセンターでのデータ保存保証などが絶対条件となり、ここをクリアしない限りデモ画面の提案すら進まないという課題を発掘した。
そのうえで、バーチャル上の経営・決裁層との対話を通じて、意思決定のトリガーは、現場の業務効率化ではなく、「IR・投資家からの人的資本データ開示への圧力」や「同業他行の給与計算ミスの報道による危機感」といった、外部への説明責任やリスク回避の意識が引き金となることが明らかとなった。
この分析から、商品を使う現場には「同業での作業時間削減の数字」、選定をする層には「FISC審査通過証明書や技術仕様書」、お金を払う経営層には「情報システム部門が承認を出しているという事実と同業他行の導入事例、3年間にわたるROIの試算表」というように、各層の判断根拠に合わせた提案資料の骨子を一貫して設計することが求められるという示唆が導き出された。
入江氏は、こうしたユースケース紹介を通して次のように指摘する。
「実際に商品を使う人、選定する人、最終的にお金を払う人は、それぞれ全く異なる判断材料を求めています。ターゲット別に資料の形式や訴求内容をつくり分けることが、受注確率を上げるための要諦です」(入江氏)
さらにセッションでは、各業界に適したマーケティング施策の検討にあたり、リソース不足に直面する中でアプローチ業界の意思決定層に刺さる「LP構成案」や「メール文面」の作成を支援した2つ目のケースも紹介された。
加えて、意思決定に関わるステークホルダーの本音や評価指標を理解し、稟議突破に向けた攻略方法や提案資料方針の提供を通じて営業力強化および受注率向上を支援した3つ目のケースも解説。
これら一連のユースケース紹介により、各業界・購買プロセスに関わる各ステークホルダーのインサイトに対する深い理解こそが、個々に最適化された施策の実現に不可欠であることが示された。
「AI×人間」で生み出す勝ち筋──BtoBマーケティングの展望
「RevOps組織」と「顧客理解の基盤」のハイブリッドにより、顧客が社内でどのように起票し、稟議承認を得るかまでを見据えて、購買プロセスそのものをデザインするという考え方が、これからのBtoBマーケティングにおいて重要な鍵となる。
博報堂は、こうしたAIエージェントによる顧客理解の取り組みをさらに精緻なものとするため、エキスパートインタビュー領域で国内最大級のプラットフォームを有するビザスクとの資本業務提携を発表している(2026年4月発表)。国内外80万人超の専門家を持つビザスクと新サービス「エキスパートAI」の共同開発を進めるなど、BtoB領域における意思決定支援の拡充を図っている。
一方で、入江氏はAIとの向き合い方について冷静な視点も提供している。
「もちろん、AIが算出するデータや示唆が常に100点満点というわけではありません。だからこそ、一次情報や現場知と組み合わせて検証することが不可欠です」(入江氏)
セッションの終盤、入江氏はAIエージェントを活用して自律的なシミュレーションを行う価値について、これまで分断されていた現場担当者、選定者、決裁者のインサイトを構造的に繋ぎ合わせ、顧客の組織を動かすシナリオを素早く仮説構築できる点にあると力説した。
「量」を追い求めて疲弊するマーケティングから脱却し、AIなどのテクノロジーを適切に活用して「質の高い深い顧客理解」を獲得すること。これが、RevOps組織を駆動させ、分断のないシームレスな顧客体験を提供し、確実な事業成長をもたらす1つの勝ち筋となる。
「人間とAIが共創する『新しい顧客理解』のアプローチこそが、これからのマーケティング戦略を構築するうえで強力な選択肢となり得るでしょう」と述べ、入江氏はセッションを締めくくった。

