貨幣とは何なのか?
私は学生時代に「貨幣の複数性」という論文を書いた。これは、ありがたいことに、『現代思想』(青土社 1995年9月号)で出版され、国立国会図書館サーチでも検索できる。当時は、東京大学元経済学部長、岩井克人氏の『貨幣論』(筑摩書房 1993年)の力を借りつつ、「貨幣とは何なのか?」という問いに答えようとした。
私は、貨幣やその経済圏は、国家という権力だけでコントロールできるものではないし、貨幣にはそもそも複数になろうとする性質があると結論づけた。「貨幣の複数性」と、ビットコインなど様々な仮想通貨が生まれてくる背景には関係があると思っている。
岩井克人氏は「貨幣が貨幣であるのは、それが貨幣であるからなのである」(『貨幣論』p64)と論じている。学術的には、「貨幣商品説」と「貨幣法制説」という大きく2つの説があるのだが、この2つを退けたのが岩井氏の大きな功績だった。
「貨幣商品説」とは、貨幣とは何らかの実体のあるモノであって、モノの中で貨幣としてふさわしいモノ(金・銀・銅など)が貨幣になったという仮説だ。
目に見える実体のあるモノに根拠を求めないと納得しないタイプの学者は、この説に傾倒する。マルクスなど唯物史観の人がそうだ。そして、紙幣や仮想通貨は、実体的なモノ(金・銀・銅など)の代わり(トークン)に過ぎないと言い張る。
もう一つの「貨幣法制説」は、何らかの外部的な権威(契約や立法など)を重視する。具体的には、アメリカ政府や日本政府が、「わが国では、ドルを貨幣にします」「円を貨幣にします」と外部的な権威で定めるから、それを信用の根拠として貨幣が流通すると考える。権力依存の強いタイプは、この仮説を支持しがちだ。
これに対して岩井氏は「貨幣が貨幣であるのは、それが貨幣であるからなのである」として、そのような存立構造を、貨幣をめぐる「因果の連鎖の円環」と表現したり、「無限の循環論法」と表現したりしている。たとえば、『貨幣論』の中で、次のように説明している。
「それは、ほかのすべての商品に直接的な交換可能性をあたえることによって、ほかのすべての商品から直接的な交換可能性をあたえられ、ほかのすべての商品から直接的な交換可能性をあたえられることによって、ほかのすべての商品に直接的な交換可能性をあたえている」(p55)
つまり、貨幣とは、ほかのすべての商品と交換してもらえるモノであり、ほかのすべての商品が交換相手として選んでくれるモノである、ということだ。「貨幣商品説」も「貨幣法制説」も、貨幣の本質ではない、というのが岩井氏の考えだ。
すでに金本位制が崩壊しエレクトロニック・マネーが存在する。貨幣が実体的なモノであると考える人は少なくなった。「貨幣商品説」は、金本位制(理屈としては、紙幣を中央銀行に持っていくと同等の価値の金と交換してもらえる制度)の崩壊とともに論拠を失った。
「貨幣法制説」については、まだ根強く残っていて、たとえば、仮想通貨は「国が定めたものではないし、中央銀行が存在せずに誰も管理しないなんて貨幣としては認められない」という意見もある。
だが、しかし、アイルランドでは、この「貨幣法制説」では説明できない事態が起こった。