誰も手をつけなかったCMのデータベース化
なぜこれまで全国のCMデータベースを構築したサービスはなかったのか。籠屋氏によると、CMの取引額を決める観点では必要なデータは存在していたものの、全国のCMをマーケティングデータとして扱い、それを収集するという発想自体がテレビや広告の業界に乏しかったという。
しかも、技術的にも困難だった。日本のテレビ放送は県ごとに放送局が分かれており、それらすべての放送データを集めようとすると、膨大なデータ量になる。地方局の放送を録画できる機器を各都道府県別に設置し、データ収集・分析を行うシステムを構築しようとすると、相当なコストがかかる。しかも、正確なデータを集められるかどうかもやってみなければわからない。そんな無茶なことに投資しようとする人や企業は現れなかった。ではなぜPTPではMadisonの開発に至ったのか。
元々PTPでは、テレビ番組を全録し、検索できるサービス「SPIDER」を行っている。広報や宣伝などの法人ニーズに沿うように専門に開発された機器およびサービスだ。市販の全録レコーダーとは異なり、高い検索精度と安定性を備えている。
「10年以上サービスを提供している法人用のSPIDER PROでは、業務用に全テレビ番組をコーナー単位でキーワード検索できますが、それに加えて、関東と関西では、CMも検索することができました。しかし、我々が計画している一般家庭用のSPIDERを全国津々浦々の視聴者に楽しんでもらうためには、地方のCMデータがどうしても必要でした。それがCMデータベース開発のきっかけです」(籠屋氏)
膨大なデータに耐えるシステムを構築
前例がないサービスだけにMadisonの開発には様々な苦労があった。まず、そもそもシステムを安定稼働させることが難題だったと籠屋氏は振り返る。
「テレビはほぼ24時間、ずっと放送されています。全国で動いているシステムが止まることなく録画を続け、データとして記録する。それを安定稼働させなければなりません。災害やアクシデントがあっても、データが欠けることは許されません。しかも、集まるデータは日々どんどん膨れ上がっていきます。データの蓄積を始めてから現在で5年近く、もう1億レコード(1レコード=1CM)以上になっています。多重のバックアップ体制と、クラウドシステムによってMadisonが誕生しました」
実際にデータを収集し始めると、同じ素材を使ったCMでも局の放送設備によってシグナルに微妙な違いがあることが判明した。人間が見る分には同じCMでも、機械的にデータ化するとシグナルの違いから「別のCM」と判定されるケースもある。また、地方によっては同じCMでもナレーションだけ地元のタレントを起用するなどしていることもあった。
「そうした違いもうまく吸収し、“同じCM”として見なさないといけません。これを技術的に解決するのも大きな課題でした。私がロボットビジョン(動画像認識)の研究をしていたときに使っていた分類技術を応用することで、実現に目途をつけることができました。さらに、広告主や広告業界の方からもフィードバックをいただき、精度を高めてきました」(籠屋氏)
籠屋氏は東北大学の大学院で、ロボットの知能化に関する研究を行っていた。その一方で、在学中から起業し、カスタマイズ性の高いマニア向けコンセプトのサーバー機能を兼ねたHDDレコーダーを開発していたという。そのプロダクトは評判を集め、あるとき技術誌で取り上げられた記事がPTP代表の有吉昌康氏の目に留まった。それが籠屋氏の同社参画のきっかけとなった。
物理学者からエンジニア兼データサイエンティストに
籠屋氏と同じく、東北大学で学んだ神保氏。大学院を出てPTPに今年入社した新戦力だ。生物をシステムとしてとらえる学問である生物物理の研究で博士号を取ったことで、ひとまず研究のゴールを迎えたと感じたという。
「研究にも区切りがついたので、一旦フラットに先のことを考えているときにこの会社に出会いました。『小さなベンチャーなのに、やっていることのスケールは大きい』と思いましたね。他のベンチャーもウォッチしてみましたが、ソフトウェアからハードウェアまで一貫して自社で構築し、どこにもないデータを集めているようなところは他には見当たりませんでした。企業とのリレーションも深い。元々データを分析してモデルを作ることが好きでしたし、その将来性の高さから、就職の道を選びました」(神保氏)
テレビを見ることがあまり多くなかった神保氏だが、SPIDERを使っているうちに、自社サービスだけでなくテレビ業界の課題も「自分ごと化」することができるようになったそうだ。テレビCMのデータがブラックボックス化しており、それは広告主だけでなく、視聴者も含む広告システムとして良くないと感じている。
神保氏は現在、エンジニア兼データサイエンティストとして活躍している。データの可視化はできても、その活用方法がわからないクライアントに対してのサポートも担当している。ただ測定した結果だけを伝えるのではなく、売上への影響が大きなエリアの抽出や次に取るべきアクションなど、一歩踏み込んだ提案がクライアントからも好評を博している。
「Madisonを使いながら、各社のCM出稿状況から広告主のCM戦略を調べています。手前味噌ですが、Madisonは非常に使いやすいUIになっていますので、自分たちで使っていても『次はあれを調べよう』とどんどんいろんなことを分析したくなります。効果測定には、様々な影響要因やたくさんの切り口があって壁にぶつかりやすいのですが、スムーズに業務を行えているのは洗練されたUI、そして蓄積された膨大なデータのおかげですね」(神保氏)
全国規模のテレビCMの出稿戦略を変えたケースも
リリースからおよそ半年のMadison。既にキリンビールや三菱電機などの大手企業をはじめとする11社に導入され、クライアントからも高評価を得ている。その要因を籠屋氏は以下のように分析する。
「神保も話した通り、今まで見たことがないデータ、そしてそれを可視化し、分析に理想的なインターフェースに仕上げられたことが大きいと思います。あるクライアントからは様々な分析ツールがある中で断トツにわかりやすく、使いやすいという声をいただき、素直にうれしく感じています」
「想定を超えたスピードで具体的な行動に結びつけていらっしゃる導入企業もあります」と、籠屋氏。Madisonから得られたデータを基に、クライアントの中には実際に全国規模のテレビCMの出稿戦略を変えたケースも少なくないという。
クライアントと直接やり取りを行っている神保氏は、「データの扱いや分析に慣れているお客様と話すと、『このデータには説得力があるので、思い描いていたあの施策がすぐに実行できそうだ』といった具体的なアイデアがポンポン出てくる場面もありました」と語る。
テレビCMが購買に及ぼす影響を解き明かす
籠屋氏は今後の展望として、MadisonだけでなくSPIDERの事業も含めて、テレビ業界によい循環を生み出していきたいと語る。
「一般家庭用のSPIDERも普及させていきたいですね。私自身も自宅でSPIDERを使っているのですが、テレビがすごく楽しくなるんです。おもしろいCMもたくさん見つかるようになります。これが全国のユーザーに広がれば、地方でこんなおもしろい番組やCMがあった、というテレビの話題でもっと盛り上がりやすくなります。それがテレビ業界の活性化にもつながっていくことでしょう」
SPIDER はアップデートにより日々進化していっている。一般的な商品は、購入したときに満足度のピークを迎えるが、SPIDERは使い込むほどに満足度も高まっていくサービスを目指しているそうだ。さらに籠屋氏は、MadisonでCMデータを企業へ提供する一方、SPIDERが普及することで視聴者がどのような番組やCMを見ているか、どんなシーンで見ているかといったデータも集計できると考えている。
「視聴率とは別の切り口のデータや数字によって、広告主や番組の制作サイドに有益なフィードバックをしていきたいですね。いい番組、いいCMが正しく評価され、たくさん視聴されることで、上手くお金も回れば、テレビ業界全体にいい循環が生まれるのではと思っています。それが究極の目標です」(籠屋氏)
若手の神保氏は、自身のミッションとして「企業のCM戦略が未来のビジネスにどのような影響を及ぼすのか見通すことができる、予測モデルを考えていきたい」と語る。
「物理学は未来を予測する学問です。テレビCMというのは私にとって未知の分野でしたが、広告が購買行動やビジネスにどういう影響を及ぼすのか明らかにしていきたいですね。大学院時代、生物という自然界で最も複雑なシステムを研究していました。広告が人々の意識や行動に及ぼす影響も同様に非常に複雑なものです。物理学者としての経験を活かして、これらを解き明かしていきたいと思います」(神保氏)
全国にテレビCMを展開している企業なら、Madisonをすぐに活用し、戦略立案に必要な多くの知見を得られるだろう。さらに、これからCM展開を検討している企業や新しい分野でブランドを確立する企業にとっても、事前に競合分析できるMadisonは強力な武器になるだろう。