「哲学×データビジネス」を開拓する朱喜哲さんにインタビュー
MarkeZine:朱さんは電通に籍を置きながら、大阪大学のELSIセンターで招へい准教授も務められています。これまでのご経歴や、現在の研究テーマに至った背景を教えてください。
朱:私は大阪大学で哲学分野の修士号を取った後、新卒で電通に入社しました。入社後はデータビジネスの最前線に身を置き、企業のデータ活用推進に邁進していました。仕事のペースをある程度掴めたタイミングで、再び大阪大学の博士課程に戻り、2019年に博士号を取得しています。

まさにその頃、2010年代後半から、世界の潮目の変化を感じていました。データビジネスや巨大テック企業への社会の風向きが大きく変わり始めたのです。たとえば、アメリカ大統領選で選挙結果を誘導するような広告ターゲティングが問題視されたり、GDPR(EU一般データ保護規則)が制定されたりと、大きなトピックが立て続けに起こりました。
世界がデータプライバシーやガバナンスへの関心を急速に高めていく中で、自分が研究してきた哲学・倫理学の「価値」や「理念」を考える営みは、今まさに直面しているデータビジネスの課題と密接にリンクしていることに気付いたのです。哲学的な思考に裏打ちされた「データ×倫理」の融合が社会で求められていることを顕著に感じ、2019年に電通と大阪大学で「データ時代のELSI(倫理的・法的・社会的課題/エルシー)」の共同開発を開始しました。
その後2020年、大阪大学に社会技術共創研究センター(通称:ELSIセンター)が設立。私はセンターの設立当初から関わり、今に至ります。
MarkeZine:では、その「ELSI」について、どういった概念なのか基礎的な解説をお願いします。
朱:ELSIとは、Ethical(倫理的)、Legal(法的)、Social Issues(社会的課題)の頭文字をとったもの。もともとは人間の遺伝子情報を解読しようとする「ゲノム解析プロジェクト」で生まれた考え方でしたが、現在はテクノロジー全般に広がっています。
ELSIの対象は、新規科学技術を研究開発し、社会実装する際に生じうる、「技術的課題以外の」あらゆる課題です。技術的に実現できるからといって、すべてが社会に容認・受容されるわけではありませんよね。技術を社会実装するためには、倫理・法律・社会的観点を考える必要があります。
データプライバシーの根幹に関わる「データ主権」の問題
MarkeZine:今日の取材のテーマである「データプライバシー×パーソナライゼーション」について、ELSIの枠組みで考えると、どのような観点が挙げられるでしょうか?
朱:まずポイントになってくるのは、「データ主権」の問題です。
データは企業が作り出しているのではなく、ユーザーの行動から生まれるもの。つまり、データの生産者はユーザー自身です。企業はユーザーが生み出したデータを使ってビジネスをしていますが、ここで重要なのは、ユーザーが自分たちのデータを「何のために」「どの範囲まで」提供し、その対価として「何を得ているのか」が明確になっていないことです。この不明瞭さ、認識のズレが、ELSIの観点で問題視されています。
たとえば、タクシーのドライブレコーダーの画像から乗客の性別を識別して広告を配信し炎上した事案や、サイト上の行動データから「内定辞退率」を推定して企業に販売し問題になった事案は、皆さんの記憶にも新しいでしょう。これらの事案が浮き彫りにするのは、大きく二つの問題です。ユーザーが知らない間に、あらゆるデータが企業に渡ってしまうリスク、そしてそのデータにより本人が意図しない形で勝手にプロファイリングされてしまうこと。これらは、データプライバシーの根幹に関わる重要な論点と言えるでしょう。
MarkeZine:ユーザーを守るための法律として、個人情報保護法が思い浮かびますが、それでは不十分なのでしょうか?
朱:個人情報保護法は3年ごとに見直されていますが、技術開発スピードのほうが速く、法律のアップデートが追いついていません。現時点で「違法ではないこと」だったとしても、倫理的にグレーなことをして、ユーザーからの信頼を失ってしまっては、ビジネスは立ち行かなくなります。つまり、現在の法律だけを守っていても不十分なのです。
私は、データ倫理こそ、企業が主体的に取り組める領域だと考えています。法律を理解するのは大前提として、「私たちはこのような理念や信念でビジネスをする」と提示し、ユーザーからの信頼を得た上でデータを預かる――これが本来あるべきデータマーケティングの姿ではないでしょうか。