年間約1億PVのメディアカンパニーが挑む変革
JTBパブリッシングは、交流創造事業を展開するJTBグループで唯一のメディアカンパニーだ。国内外200タイトルにもおよぶ『るるぶ情報版』をはじめ、創刊100年を迎えた『JTB時刻表』、大人世代向け定期購読誌『ノジュール』などの旅や交通にまつわる図書ブランドから児童書、ビジネス書まで幅広く発行している。
デジタル領域では、旅行情報サービス「るるぶ+」に加え、ファミリー向け「るるぶKids」、女性向け「るるぶ&more.」などのライフスタイルメディアを運営し、全体で年間約9,950万PVを獲得。新宿・紀伊國屋書店の地下ではリアル店舗メディア「るるぶキッチン」も展開するなど、事業は紙の出版にとどまらない。
現在の多角的な事業の背景には変革があった。その起点は同社の代表取締役 社長執行役員を務める盛崎宏行氏が現職となり、プレイドとの伴走が始まった2022年にさかのぼる。盛崎氏は「ほとんどの方は、旅行ガイドブックといえば旅行の行き先が決まってから1冊だけ買って使うと思います。そのマーケットから、ガイドブックのコンテンツを構造化・デジタル化することで、旅行の検討段階にいる方々へと接点を広げ、マーケットの拡大を実現してきました」と語る。
現在進行中のテーマと伝えられたのは、過去蓄積された膨大なデータと編集力を掛け合わせ、AIを活用した「コンテクストプラットフォーム」へと進化させることだ。
旅行検討は「検索・閲覧」から「相談・提案・代理」へ
(写真右)プレイド Head of CX Strategy Team Managing Director 古市 倫⼤氏
AIにより、顧客の旅行行動はどのように変化しているのか。セッションに登壇したプレイド Data Mind/Business Lead of AIの西村達一朗氏は、「旅行検討のプロセスが従来のキーワード検索から大きく変わりつつあります」と指摘する。
「たとえば『軽井沢 1泊2日』という従来のキーワード検索ではなく『今週末、家族と日帰りで出かけたいと思っているが、おすすめは?』と自然言語で相談し、出てきた候補を見ながら『雨が降りそうだけど大丈夫?』と悩みをぶつけ、最後は『あなたにはこっちが合うかも』とAIが提案するアイデアから旅行先を選ぶようになりました。さらにこの1年で、選択をサポートするだけでなく、その後の実際の予約や購入までAI Agentに任せる方向へ急加速しています」(西村氏)
その象徴として西村氏が挙げたのが、Googleが毎年春に開催する大規模な年次開発者会議「Google I/O 2026」での一連の発表だ。欲しい情報をAIが24時間自動で探し続ける「Search Agents」、検索結果の画面そのものをユーザー専用にその場で組み立てる「Generative UI in Search」、そして購入手続きを共通化する「UCP」、サイト横断の「Universal Cart」、AIに安全に決済を任せる「AP2」。「このようなWeb体験が当たり前になると、ユーザーは『もう個別のサイトに行かなくていいのではないか』という議論すら出てくる」と西村氏は語る。
AIがユーザーをWebサイトへ誘導する代わりに内容を要約するようになれば、作り手に収益と評価が戻らなくなる。モデレーターのプレイド 古市倫大氏は「Webの健全な再生産ループが崩れかねない」と指摘する。
顧客との接点も、従来のような「検索型」だけでなく、SNSなどで偶然出会う「推薦型」、ChatGPTやGeminiに相談する「会話型」、LINEなどでつながる「CRM型」、計画や予約を任せる「代理型」へと多様化している。こうした接点の細分化により、万人向けに作られた企業サイトやオンラインメディアへの流入が減少するという最悪なシナリオが、あらゆるオンラインメディアの前に鎮座しているわけだ。
AIで獲得できるのは情報に過ぎない。ベストな体験の提案へ
では、メディアが置かれる現況に対し、盛崎氏はどう感じているのか。
「危機感はあるといえばあります。ただ、AIで獲得できるのは単なる情報に過ぎません。ユーザーは果たしてそれだけで満足できるのでしょうか。情報以上の満足度で違いをしっかり見せることができれば、メディアの価値は生き残ると考えています」(盛崎氏)
そもそも、旅にとって一番大事なこととは何だろうか。盛崎氏は「終わったときに『行ってよかった』と思えることです」と言い切る。
「旅行の最終日、『明日帰るんだ』と思うと何とも言えない切ない気持ちになる。そのときに『来てよかったな』と言えること。誰かと一緒なら、目を合わせて『来てよかったね』と言えることが一番大事なことです」(盛崎氏)。
るるぶは1973年の誕生以来、社会進出著しい女性の「旅に行きたいという気持ち」に対し、背中を押してきた。当然ながら単に旅行情報を提示するだけでなく、JTBが蓄積してきた「旅の背景にある思いを理解し、旅行をプランニングする」という知見もある。そうしたすべての資産を活用し、「ユーザーの背中を押すことに全力を注ぎます」(盛崎氏)と力を込める。
具体例として挙げられたのは、西村氏自身がちょうど検討中だという家族での韓国旅行だ。盛崎氏は「仮に父親の方の目線でご家族の旅行の目的を考えると、小学生のお子さんと奥様ではニーズが全く違うはずです。どちらかが我慢するのではなく、買い物やK-POPを楽しみたい人、プールで遊びたい人を同時に満足させるように、施設や移動、時間配分まで考えて提案するのが私たちの力です」と答える。
情報はAIでも調べられるが、膨大な工数をかけ、旅行者の価値観の違いを踏まえてすべてコーディネートするのは容易ではない。「ユーザーのデータから文脈を読み取り、快適に過ごせる案を一発で提案する。情報提供を、体験の提案に変えていきます」と盛崎氏は語る。
AIは型を再現して正解を探し、人間は型を外した正解を求める
この提案力を支える概念が「編集知」と呼ばれるものだ。同じ情報でも、ユーザーの背景によって、その価値も欲しいタイミングもまったく異なる。そうしたユーザーの背景を文脈から読み取って提供することが、JTBパブリッシングの編集の知見であり、それをテクノロジーで実装するというのが、プレイドとともに挑戦しているプロジェクトだ。
編集知に関して、AIはどこまで進化しているのだろうか。この問いに答えたのが西村氏だ。
西村氏はComputerworld.comの記事をベースに、人間の編集の価値を裏付けるデータを紹介した。世の中の有名な広告のブリーフをAIに渡して広告を作らせ、約3,000人に見せた実験では、確信を持って「AIが作った広告」と判断できた人は25%にとどまり、40%のユーザーは判断できなかった。ところが、人間が制作した広告のほうが、AI広告よりも販売効果は14%高く、ブランドへの好意的な印象アップも17%高かったという。
「制作物を見ると、見分けがつかないほどAIの精度は上がっています。ところが『どれにワクワクしたか』を聞くと、選ばれたのは圧倒的に人が作ったものでした」(西村氏)。
記事でも同様で、検索結果で1位に表示された記事の割合は人間執筆のものが80%。AI生成は9%と、約8倍の差がついたという。
「AIは従来のデータから型を決め、正解を求めます。一方人間が記事を作るときは、正解からあえて少し外して『これなら世の中がワクワクするのではないか』と、遊び心や冒険を入れて違う正解を求めに行きます。この外し方やひねりこそ、人間の編集知そのものです」と西村氏は語る。そうした編集知を、属人的な能力ではなく、いかに組織の知にするかが、今まさに取り組んでいるJTBパブリッシングの挑戦だという。
企画会議の音声も、売上データも「旅行コンテクスト」になる
編集知は、どうデータとして実装されるのか。西村氏が示したのは、これまで活用されてこなかった非構造化データの掘り起こしだ。
「企画会議の音声や企画書には、最終的に記事に載らなかった議論の中身が詰まっています。ガイドブックの売上データも、どの地域でどの本が売れたかを見れば、その地域のニーズが読み取れるはずです。アプリやメディアの行動データからは顧客の思考プロセスが見えてくるでしょう。さらには、リアル店舗のるるぶキッチンで、どの地域の料理にお客様がどう反応したかといったレビューまで取り込むとおもしろいことが起こるはずです」(西村氏)
では、これを技術面でどのように実装していくのか。生データをそのままAIに渡すのではなく、「どんなコンテクストがあるのか」を抽出・構造化する処理をプレイドが担って開発しているという。
たとえば美術館でいえば、住所や料金、展示といったスペック情報の先にある「子連れでも行きやすい」「雨の日でも過ごしやすい」「半日滞在に向いている」といった文脈情報を掘り起こしてこそ、多様なニーズを持つユーザーへの提案の材料になる。その提案へ反応したユーザーのリアクションも、「この人はこういうものが好き」という学びとなり、次の提案を良くする循環が生まれる。「提案は終点ではなく、次の顧客理解の起点になります」と西村氏は語る。
コンテクストデータの用途は顧客体験の向上だけではない。AIに理解・引用される情報源になるための、いわゆるSEO/AIO対策として記事やサイト構造の設計に活かすこともできる。西村氏は「どの本がどこでどう売れているのか、どんなコンテクストが今バズっているのかが客観的なデータで見えれば、次の企画の立て方も変わるはず。編集業務そのものも変わっていくでしょう」と語る。こうして編集知は顧客体験、社内業務、そして新規ビジネスへと広がっていくという。
旅行コンテクスト」で拓く、新たなビジネスモデルと他業種連携
ビジネスモデルも、従来の流入・送客・コンバージョンの上に積み上げていく。
「ライフスタイルに関わる企業にこの情報を使ってもらえれば、顧客理解が深まり、CRMが極めて深まる。旅行コンテクストデータの他業種への提供も含め、幅を広げて利益を生み出す形にしたい」と盛崎氏は語る。
最後に古市氏が投げかけたのは、「AIが誰でもそれらしい旅行情報を無限に作れる時代に、ユーザーがるるぶに委ねる決め手は何か」という問いだ。盛崎氏が返した答えは「信頼」というキーワードだった。
「ブランドだけではなく、誰がどんな知見と責任を持ってレコメンドしているのか。その情報が自分の文脈に合っているか。そして『行ってよかった』という旅を繰り返し提供できているか。そういったものを含めた信頼が、最後に選ばれる決め手になると思います」(盛崎氏)
最後に盛崎氏は、旅行が「ライフスタイル全体のニーズや文脈がキュッと詰まったもの」であることを踏まえ、会場に呼びかけた。「自分たちだけの編集知で顧客を深く理解することには限界があります。旅の文脈で選ばれるコンテンツを持つコンテンツホルダーの皆さんと、企業コンソーシアムを形成し、価値ある提案を一緒に実現していきたいです」。
ガイドブックからWeb、そしてAI時代への対応へと、53年の編集知を武器に、るるぶの変革が始まっている。

