この記事は、日本マーケティング学会発行の『マーケティングジャーナル』Vol.46, No.2の巻頭言を、加筆・修正したものです。
ウェルビーイングから考える、マーケティングの新たな可能性
製品を買って満足する。好きなブランドに出会ってワクワクする。便利なサービスの登場で日々の負担が軽くなる──。マーケティングは、製品やサービスを通じて、人々の生活を豊かにする役割を果たしてきました。その意味では、マーケティングと人々の豊かさや幸せは、もともと深く結びついたテーマだといえます。
しかし、マーケティングを通じて人々の豊かさや幸せを実現することは、そう単純ではありません。消費者が大切だと考える価値観が必ずしも実際の行動に結びつくとも、個々の消費者の満足を高めることがそのまま社会全体の豊かさにつながるとも限らないからです。マーケティングと人々の幸せの関係には、一筋縄でいかない要素にあふれています。
売上や顧客満足といった成果を追求しながら、人や社会の豊かさにもつながるマーケティングは、どのようにすれば実現できるのでしょうか。
こうした問いを考える上で、近年マーケティング研究でも注目されているのが人々の幸福や豊かさを意味する「ウェルビーイング」です。『マーケティングジャーナル』Vol.46, No.2では、「ウェルビーイングとマーケティング」をテーマに、社会課題の解決を通じた市場創造、シェアリングを支える意外な消費者価値観、社会的価値を起点とした収益モデルの可能性、顧客のウェルビーイングにつながるブランド・マネジメントについて、この問題に迫る4つの論考が掲載されています。本稿では、各研究がマーケターにどのような新しい視点を提供してくれるのかを紹介します。
「母乳最善」の常識をどう変えた?社会課題に挑むマーケット変革
東京都立大学の水越康介教授とカンタベリー大学のケネディ教授による『レバレッジポイントとしてのパラダイムシフトを通じた社会変革―乳児用液体ミルクの日本市場導入―(日本語版はこちら※PDFダウンロード)』は、日本における乳幼児液体ミルクの普及プロセスを題材として、社会に根づいた価値観や制度、市場がどのように変容し、新たな市場が形成されていったのかを解き明かしています。
長らく日本では「母乳育児が最善」という強いパラダイムが存在していました。しかし、震災時の避難生活などを契機にその「正しさ」が相対化され、液体ミルクという新たな選択肢が受容されていきます。重要なのは、母乳育児の価値が置き換わったのではなく、「災害時の備え」や「男性の育児参加」「女性の社会参加」といった異なる社会的な正しさが認識され、それらが調停される中で制度や市場が変化した点です。
新たな市場を創ろうとするとき、既存の「正しさ」を新たな「正しさ」に置き換えることだけが、その方法ではありません。商品やサービスの普及を阻む社会の「当たり前」と、それを相対化する新たな価値観を捉えることも、市場を拓くきっかけになります。本研究は、そのような価値観を動かす「レバレッジポイント(システム全体に対して大きな影響を及ぼす介入点)」に着目する重要性を教えてくれます。
